突入
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関連項目
突入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:06 UTC 版)
「アメリカン航空11便テロ事件」の記事における「突入」の解説
我々は急速に降下中… 全員飛行機に乗っています。ああ、神様、低すぎる! 突入直前に交信した客室乗務員のエイミー・スウィーニの言葉 8時46分40秒、AA11便はニューヨークのワールドトレードセンターのノースタワー(1号棟)に突入した。 AA11便はタワーの北面から、94階から98階のあたりに衝突した。衝突時の速度は時速466マイル(時速約750キロメートル)と推定される。衝突部分を中心に外壁や床などが破壊され、機体の全てはタワーに飲み込まれた。さらに機体の破片の一部は、タワーを貫通して反対側に飛散した。これらによって、タワーを支える構造材の一部が破壊された。AA11便は、衝突時におよそ10,000ガロン(約38,000リットル)のジェット燃料を搭載していた。機体全体がタワー内に入った直後、飛散・気化した燃料に引火して巨大な火球が発生した。火球による圧力波はエレベーターシャフト(昇降路)内を通り、少なくともコンコース階と23階のシャフトの壁が破壊された。衝突部に飛散したジェット燃料は最初の数分で燃え尽きたと考えられているが、建物内の設備や機体残骸などの可燃物に引火して火災が広がった。 マンハッタンを低空飛行するAA11便は多くの人々に目撃された。ニューヨーク市消防局の副署長を務めていたウィリアム・ウォルシュは次のように証言している。 飛行機は降下しているように見えるが、機体には特に問題がなさそう–––私たちはそのような印象を受けました。アメリカン航空の飛行機がマンハッタンのダウンタウンでなぜそんなに低空を飛んでいるのか、私たちには分かりませんでした。機が針路を変えて、ハドソン川に向かうことを私たちはどこか期待していました。しかし、まさにその時、飛行機はわずかに上昇して水平飛行に移り、そしてトレードセンターにまっすぐ向かいました。トレードセンターに突入する直前、機は推力を増したように見えました。私たちは、その飛行機がワールドトレードセンターに命中するのをただ見ているだけでした。不意に爆発音が轟きました。機はトレードセンターの中に消えました。 9/11委員会の報告書によると、衝突の瞬間に数百人が死亡した。ノースタワーでは衝突部より上層階からの脱出経路が全て破壊されてしまった。92階から上の階段の吹き抜けとエレベーターが通れなくなり、1,344人が閉じ込められた。 閉じ込められた人たちは火災の熱と煙により、そしてその後のタワーの崩壊に巻き込まれ命を失った。激しい高温や煙に逃げ場をなくし、タワーから飛び降りて亡くなった人が200人にものぼった。 AA11便の激突後、消防や警察の動きは早かった。8時48分には、ニューヨーク市消防局が26部隊を出動させた。8時49分から50分にかけて、上空からの情報収拾のためのニューヨーク市警察が航空隊を出動させたほか、緊急対応部隊を派遣した。 フランスの映像作家ノーデ兄弟(英語版)が、衝突の瞬間を映像に収めている。ノーデ兄弟は地元消防士のドキュメンタリーを制作しており、当時はガス漏れの通報を受けた消防士に同行し、ワールドトレードセンターより北に1.2kmほど離れたチャーチ・ストリートとリスペナード・ストリートの交差点で撮影中であった。他にチェコ系移民のパヴェル・フラヴァ(Pavel Hlava)が車で移動中、ワールドトレードセンターから南東約3.5km、ブルックリン・バッテリー・トンネル(英語版)のブルックリン側入口付近から撮影した映像が残っており、結果的にこれら2本のみが、AA11便のノースタワーへの衝突の瞬間を捉えた映像記録となっている(現存する衝突の映像の殆どは、UA175便のそれを捉えたものである)。また、ドイツ出身の芸術家、ヴォルフガング・シュテーレ(英語版)が設置していたWebカメラがノースタワーに衝突する瞬間を捉えている。このカメラは、インターネットアートのイベントの一環として、ブルックリンからロウアー・マンハッタンを4秒おきに撮影していたものだった。 8時48分、CNNがワールドトレードセンターの災害の第一報を流した。事件直後は報道機関も混乱に陥り、しばしばアドリブによる対応が見られた。CNNで最初に本事件を報じたニュースキャスターのキャロル・リン(英語版)は、次のように切り出した。 ええ、これは、ご覧の映像は今入ってきました。言うまでもなく、とても衝撃的なライブ映像です。これは、ワールドトレードセンターです。そして、今朝私たちは、ワールドトレードセンターのタワーの1つに飛行機が衝突したという未確認情報を入手しました。 CNNセンターはたった今、この出来事について取材を開始したところです。もちろん情報源に問い合わせて、何が起きたのか正確に把握することに務めています。しかし、今朝、マンハッタン島の南端のその場所で、比較的破壊的な何かが起きたことは間違いありません。 繰り返します。これは、ワールドトレードセンターのタワーの1つの映像です。 その後、ニューヨーク支局と電話が繋がり、それが放送された。電話の相手は当時財務担当副社長であったシーン・ムルターで、彼は大型ジェット旅客機がワールドトレードセンターに衝突したと述べた。AA11便の衝突直後は、小型機による事故との見方もあった。事件発生の朝、当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュはフロリダ州サラソータのエマ・E・ブッカー小学校を訪問していた。ホワイトハウスから大統領へのAA11便に関する最初の報告は、ブッシュ本人によると「小型の双発機による事故」という内容だった。
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突入
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「ガルーダ航空206便ハイジャック事件」の記事における「突入」の解説
31日午前1時ごろ、タイ政府のスポークスマンが記者団に状況を説明し、インドネシア政府の交渉団が拘置中の政治犯92人のリストを提示し、その中から80人を指名するよう犯人に伝えたこと、犯人は27人を選び、残る53人の選定は当局に委任し、80人の政治犯到着は午前6時半の予定であることを発表した。 インドネシア政府は31日早朝、特殊部隊の突入を決定した。黒シャツ、黒ズボン、ベレー帽で身を固めた約20人の部隊が駐機中の206便に三方向から接近した。 数人がアルミの梯子をかけて主翼に登り、二つのドアを開けて機内に突入した。午前2時45分であった。この時、ハイジャック犯は通路とコックピットでコーランの御経を唱え、朝の祈りを捧げているところだった。 銃撃戦はたった3分で終わり、犯人5人のうち3人が射殺され、2人は逮捕されたが後に死亡した。突入隊員1人とパイロットが死亡したが、人質の乗客乗員44人は無事だった。 突入は完全な奇襲であり、犯人の日課が隙となった。交渉は突入のための偽装であった。
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突入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 00:15 UTC 版)
健軍飛行場から出撃した12機の九七式重爆撃機は三角から沖縄西方海上に直進後、21:10に約90°の直角に変針し、22:00に沖縄本島に達する計画であった。第60戦隊の杉森秀男大尉が搭乗する四式重爆撃機が第三独立飛行隊を沖縄まで誘導し、義烈空挺隊の突入寸前に照明弾を投下する手筈となっており、杉森機は手筈通りに照明弾2発を投下し「照明弾2発投下」と無線報告をしたが未帰還となった。 12機の九七式重爆撃機のなかで4機が発動機などの不調により引き返し沖縄に向かったのは8機となった。行動秘匿のために義烈空挺隊からの通信は、沖縄西方海上での変針時、沖縄本島到着、只今突入の3回とあらかじめ決めていたが、21:10の変針、22:00の沖縄本島への到着予定時刻にはいずれも連絡なく、無線を聞いていた第六航空軍司令部は重苦しい雰囲気に包まれた。その後、22:11になってから奥山隊長機から「オクオクオク オクオクオク ツイタツイタツイタ ツイタツイタツイタ」との入電があり、司令部と隣室に控えていた報道班員や新聞記者らはドッと歓声を上げた。しかしその無電が義烈空挺隊から発された最初で最後の無電となった。先導した重爆隊により、6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされた。その後にアメリカ軍から平文で読谷飛行場の騒乱を伝える電文が次々と発信されるのを日本軍が傍受した。「読谷飛行場異変あり」「在空機は着陸するな」「島外飛行場を利用せよ」との電文の他、慌てた管制官が在空機を空母に誘導しようとし機動部隊の位置を暴露する混乱ぶりだった。アメリカ軍の混乱状況から判断して義烈空挺隊は果敢な攻撃を実施したものと判断されて、軍司令官の菅原は大本営に24:00に作戦成功の第一報を入れている。翌5月25日に一〇〇式司令部偵察機が沖縄を偵察したが、読谷飛行場は機能喪失、嘉手納飛行場は使用制限を受けている模様であり、同日もなお義烈空挺隊は飛行場付近で敢闘中と判断された。 読谷飛行場のアメリカ軍兵士は、日本軍の爆撃機が自らの意思で着陸しようとしていることに驚愕し、猛烈な対空砲火を浴びせた。アメリカ陸軍の沖縄戦公式戦史「United States Army in World War II / The War in the Pacific / Okinawa: The Last Battle」によれば、6度にも及ぶ日本軍機による空襲ののち、24日22:30頃、義烈空挺隊のものと思われる双発爆撃機5機が伊江島の方向から、低空で進入、対空砲でたちまちそのうちの4機が撃墜されたが、最後に突入した1機が対空砲火をかい潜って読谷飛行場の滑走路に胴体着陸、8名の完全武装の空挺隊員が機から飛び出すと、八方に突っ走り滑走路沿いに並んでいるアメリカ軍機の破壊工作を開始している。この日管制塔では、海兵隊夜間戦闘機隊VMF(N)の戦闘機パイロットメイナード・C・ケリー海兵隊中尉とロバート・N・ダイエルリッチ海兵隊2等軍曹が管制業務に就いていたが、ケリーは義烈空挺隊員が機体から出てくるのを見ると、38口径の拳銃を掴んで管制塔を飛び出してジープに乗って胴体着陸した日本軍機に向かっていった。近づいてきたジープに義烈空挺隊員は射撃を浴びせ、しばらくの間銃撃戦となったが、他の義烈空挺隊員が次々とアメリカ軍航空機を破壊しているのを見ると、ケリーは管制塔に戻り飛行隊司令部に警報を入れることにした。管制塔近くにも既に義烈空挺隊員が進出していたが、ケリーはこの隊員を拳銃で射殺すると、管制塔を駆け上がって飛行隊司令部に警報電話をし、さらに戦闘し易くなるよう探照灯を点灯しようとしたとき、義烈空挺隊員の射撃によって戦死した。 このように冷静に戦ったアメリカ兵もいたが、飛行場を防衛していた多くのアメリカ軍兵士はパニックに陥り、四方八方に向けてあらゆる火器を発砲した。兵舎で休息していた海兵隊のパイロットたちは慌てて地下壕に退避したが、そのうち数名が負傷し、その中でも2名は片足を吹き飛ばされる重傷を負った。この様子を見ていたアメリカ軍従軍記者が、読谷飛行場の状況を「地獄さながらの混乱」と記述したほどの混乱ぶりであった。 アメリカ軍海兵隊の記録では、義烈空挺隊の破壊工作により、アメリカ軍機9機が破壊炎上(F4U戦闘機3機、C-47輸送機4機、PB4Y-2爆撃機2機)、29機が損傷(PB4Y-2爆撃機2機、F6F戦闘機3機、F4U戦闘機22機、C-47輸送機2機)、破壊されたC-47の1機はチェスター・ニミッツ海軍元帥の使いとして沖縄に来ていた太平洋艦隊司令部の幕僚チャールズ・J・ムーア少将の乗機であった。燃料集積所も破壊されドラム缶600本の70,000ガロンのガソリンが焼き払われ、ケリーを含むアメリカ兵2名が戦死し18名が負傷した。また対空砲火で被弾した重爆撃機のうちの1機が高射砲に体当たりして、高射砲を操作していた海兵隊員8名が戦死している。 読谷飛行場はこのダメージにより翌朝8時まで使用不可となった。帰還した陸軍の重爆撃機搭乗員は、読谷飛行場が大混乱に陥り、次から次にアメリカ軍航空機が炎上していたと報告している。残りの3機はどうなったのかはアメリカ軍の記録には記述はないが、嘉手納飛行場も打撃を被っており、第五航空艦隊司令部は、嘉手納飛行場は使用できないので沖合の空母に着艦せよというアメリカ軍の無線を傍受している。陸海軍の爆撃機は同時に伊江島飛行場も爆撃し、ここでも60名のアメリカ兵が死傷するなど大きな損害を与えている。 戦闘が開始されて1時間後に海兵隊の増援部隊が到着、生き残っていた義烈空挺隊員を掃討していき、読谷飛行場の混乱も次第に収まっていった。翌25日13:00頃、最後の1名が残波岬で射殺され、義烈空挺隊は全滅した。義烈空挺隊員が飛行場から離れた海岸線まで達していた理由については、「義烈空挺隊攻撃計画」の通り、アメリカ軍飛行場攻撃のあとは海岸まで達して揚陸物資を攻撃する計画であったからである。 さらにこれは「第一期攻撃」であり、第一期攻撃が成功したのちは、生存した義烈空挺隊員はそのまま沖縄にてゲリラ戦を展開していく計画で、これを「第二期攻撃」としていた。 其ノ二 第二期攻撃(遊撃戦)(一)戦闘指導要領 、△二二〇・三―一六〇・〇東側谷地ニ遊撃據点ヲ占領シ有機的攻撃ニ依リ重点ヲ(北、中飛行場)ニ置ク敵飛行場後方撹乱ニ置キ敵ノシンタンヲ寒カラシメ(補給ヲ困難ナラシム) 、據点占領地域ハ別紙第下ノ如シ 、攻撃要領 イ、△二二〇・三―一六〇・〇ノ線及越来村北側地区ニ推進據点ヲ推進シ北中飛行場及物資集積所ニ對シ攻撃ス ロ、攻撃地区ノ配當ハ概ネ第一期戦闘ニ準ズルモ細部ハ現指示ニ依ル 、攻撃時期ハ部隊ノ集結状況ニ應ジ決定スルモ概ネX+三日以降トシ時刻ハ夜間トス 、攻撃目標ハ在地飛行機輸送機関物資集積所トス 、企 秘匿ニ関シテハ特ニ據点竝ニ連結位置ノ秘匿ニ重点ヲ置ク 、連絡 各隊間ハ勉メテ相互連絡ニ依リ確保スルト共ニ左記要領ニ依ル イ、連絡場 1、久保南方二百米断崖部東端 2、比謝川最上流源点 ロ、時刻 1、日没一時間後ヨリ一時間 2、日出二時間前ヨリ一時間 ハ、要領 各據点毎連絡者ヲ派遣シ命令報告通報傳達ス 、給養補給 各據点毎ニ現地物資資材ノ獲得ニ依リ極力蓄積シ持久性ヲ保持セシム 、速ニ該方面ニ行動シアルト予想セラル球部隊トノ連絡ニ努ム 義烈空挺隊は北飛行場東北にある220.3高地をゲリラ戦(遊撃戦)の拠点にしようとしていた。同高地は付近に深い谷があり潜伏するにはうってつけの地形で、生存した空挺隊員はそこを拠点とし、毎晩北飛行場や物資集積所を襲撃し命ある限り戦う計画であった。 陸軍中野学校の諜報員は、サイパン島攻撃のときとは異なり残置諜報員としての潜入任務は命じられておらず、純粋な戦闘員として作戦に参加していたが、付近の山中には、すでに他の陸軍中野学校諜報員に率いられた第二護郷隊がゲリラ戦を展開しており、義烈空挺隊の諜報員も護郷隊と連携しゲリラ戦を展開する計画であったという指摘もある。名護市史編さん係で陸軍中野学校と沖縄戦の関連を研究している川満彰は「彼らは生き残る計画だったと思うんですよ。一般の僕たちから見ていたら無謀な計画ではあるんだけれど(中略)彼らは生き残るつもりだった。遊撃戦を展開して、大本営、関東地区の爆撃をどうにかここで少しずつでもいいから食い止めるというそういったことが計画されていたんでしょうね」と、義烈空挺隊が単なる決死の特別攻撃隊ではなく、なるべく生存をはかり、長くゲリラ戦を展開してアメリカ軍の足止めを行う任務を帯びていたと指摘している。 アメリカ軍の調査によると、確認された日本兵の死者は北(読谷)飛行場で13名(胴体着陸に成功した機体内で発見された3名を含む)。飛行場周辺で撃墜された他の4機には、各機とも14名ずつが乗り組んでいたと考えられ、全員が炎上した機体内やその周辺で死亡しており、その総数は69名であった。義烈空挺隊員の遺体はアメリカ海軍設営隊が埋葬している。 義烈空挺隊員の遺体からは、アメリカ軍パイロットが就寝しているテントの位置までが記された詳細な地図が発見され、驚いたアメリカ軍は翌朝、スパイ対策の強化を命じている。特に、飛行場周辺に滞在していた避難民の関与が疑われたため、避難民が飛行場から遠ざけられた。6月12日に陸軍第6航空軍が発信した戦闘概報によると「義号作戦ニ参加シ北中飛行場ニ強行着陸ス任務終了後敵中突破「具志頭(島尻郡八重瀬町)」附近ニ到達セル一名」の兵士が戦果を報告したとされるが、その真偽と隊員の氏名は判明していない。 義烈空挺隊の突入は苦闘する第32軍が陣取る首里山上からも視認することができ、高級参謀の八原博通大佐も嘉手納、読谷飛行場方面で火の手が揚がるのを目撃している。八原は参謀らしく「軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北、中飛行場でなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである」と冷静に感想を述べているが、第32軍司令部将兵は、義烈空挺隊や連日飛来する特攻機から「地上部隊よ頑張れ。今夜もまた我々特攻部隊がやってきたぞ」語りかけられているように感じて、死闘の中で戦うのは我々のみではないとの感情を深く心に抱くことができたという。 奥山には出撃前に少佐昇進の内示があったが、少佐の階級章を一度も付けることはなく、両肩に付いていた大尉の階級章を外すと、出撃を見送った挺進第1連隊長・中山勇大佐に託して出撃している。奥山は昭和20年6月10日付で少佐に進級し、戦死認定(昭和20年6月15日)の後にさらに二階級特進し、最終階級は大佐となっている。 以上のように飛行場の機能に一定の打撃を与えることに日本軍は成功し、特に海兵隊の戦闘機隊は大きな損害を被ったこともあり、すぐには特攻機の迎撃任務に復帰することができなかった。しかし、沖縄は義烈空挺隊が突入した翌5月25日からまた天候が崩れて、第六航空軍だけでも120機の特攻機を出撃準備させていたが、出撃できたのはその中の70機だけで、沖縄まで到達できたのは24機に過ぎず、日本軍は多大な日時と労力と人的犠牲を費やしながら、義号作戦の成果を十分に活かすことはできなかった。また、陸軍は残存の戦力で総力を結集させた作戦となったが、海軍はこれまで沖縄の飛行場を攻撃してきた夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」が、慰労会や酒宴を開催しており攻撃に参加していないなど、初めから陸海軍連携の足並みは揃ってなかった。第6航空軍司令官の菅原は作戦について、日記で「後続を為さず、又我方も徳之島の利用等に歩を進めず、洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」と評していた。それでも数少ない特攻機はLSM-1級中型揚陸艦LSM-135を撃沈、 バトラー (掃海駆逐艦)(英語版)、 ローパー (輸送駆逐艦)(英語版)、バリー(輸送駆逐艦)、スペクタクル (掃海艦)(英語版) の4隻に再起不能のダメージを与え(バリーは後日に別の特攻機の命中で沈没、他3艦は廃艦)他7隻を損傷させ、アメリカ軍兵士171名を死傷させる戦果を挙げている。 アメリカ軍はこの予想外のコマンド攻撃に衝撃を受けており、沖縄戦における主要なアメリカ軍の公式戦史、公式報告書、アメリカ軍機関紙星条旗新聞、従軍記者の報告、司令官レベルの将官の伝記などに詳細に記述されている、なかでも米国戦略爆撃調査団報告書においては「連合軍飛行場への自殺(特攻)攻撃」と紹介され「この1機からの空挺隊員は、飛行場に奇襲をかけ、そうとうな成果をあげた」と作戦成功と評されて、実際に義烈空挺隊と戦闘したアメリカ海兵隊の公式報告書では、あと1機~2機が突入に成功していたら驚異的な損害を生じていたと結論付けられている。第5艦隊司令官として沖縄作戦を指揮したレイモンド・スプルーアンスも義烈空挺隊の報告を受けると、戦闘長期化を覚悟し速やかな勝利を断念している。第二次世界大戦関連で多くの著作があるイギリスの著名な歴史作家マーク・フェルトン(英語版)は義烈空挺隊指揮官奥山を「信じられないほど勇敢で才能のある兵士であった」と評価している。 義烈空挺隊が一定の成果を上げたと考えた日本軍は、義号作戦と同様な特殊部隊でのより大規模な空挺特攻作戦となる、日本海軍によるサイパン島飛行場への剣号作戦や、日本陸軍による沖縄飛行場への烈作戦 を計画し準備を続けていた。これらの作戦には、義号作戦後に挺進第1連隊に統合された義烈空挺隊の生還者の一部も参加する予定であった。しかし義烈空挺隊から被った損害で日本軍による空挺特攻作戦を警戒していたアメリカ軍は、日本軍の空挺特攻作戦の準備が進んでいるという情報を掴むと、剣号作戦での海軍航空隊作戦機の出撃基地であった三沢基地を、8月9日と10日に艦載機で猛爆撃した。海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊と陸軍挺進第1連隊の混成部隊をサイパン島に空輸する予定であった一式陸上攻撃機25機は、巧妙にカムフラージュされていたにも関わらず、アメリカ軍艦載機は航空機のみを狙い撃つ緻密な爆撃で18機を完全撃破、7機を損傷させて壊滅状態にした。激しい爆撃だったが、航空機の大損害に対して飛行場施設と人員に損害はなかった。輸送部隊の壊滅により作戦は延期を余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった。 戦後間もない頃、義烈空挺隊員の生還者のうち数名が、自分たちに出撃を命じながら自決もせずに生き長らえている菅原に抗議するため菅原宅を訪れたことがあった。菅原は経済的な困窮に加えて、死んでいった義烈空挺隊員を含む特攻隊員に申し訳ないとして、外から見たら物置にしか見えないバラック小屋に居住しており、あまりの菅原宅のみすぼらしさと応対した菅原と妻女の誠実な態度に接して、隊員らが何も言うことなく帰ったということがあった。同じく戦後に、菅原は作家の山岡荘八から義烈空挺隊のことを尋ねられて、「まことに立派な若者たちで惜しい!などという言葉では云いきれません。」と声を呑むようにして答え合掌している。 義烈空挺隊が出撃した健軍の地にある陸上自衛隊健軍駐屯地では、毎年の5月24日を基準日として、義烈空挺隊の慰霊祭が開催されている。
※この「突入」の解説は、「義烈空挺隊」の解説の一部です。
「突入」を含む「義烈空挺隊」の記事については、「義烈空挺隊」の概要を参照ください。
突入
「突入」の例文・使い方・用例・文例
- 戦争に突入する
- 融除の過程は、スペースシャトルなどの宇宙船が大気圏に再突入する際に発生するような高熱の状況において起きる。
- ミッションを終えて、ガリレオ探査機は木星の大気圏へ向けて突入した。
- 大気圏突入時、カプセルは減速用パラシュートを開く。
- 王が支援を要請したため、彼らはいやいや戦争に突入した。
- ソレノイドへの突入電流でノイズが発生します。
- 鉱山労働者が賃上げを要求してストに突入した。
- 交通機関の労働者は賃金カットに抗議して、ストに突入しました。
- 警察がバーに突入した。
- 君子が恐れて踏み込まぬ所へも愚者は突入する。
- 我々は戦争の新しい段階に突入しつつある。
- 宇宙船は大気圏に再突入した.
- 《諺》 天使が恐れて踏み込まぬ所へも愚者は突入する, 「めくら蛇におじず」.
- 最低賃金の底上げを要求して労働組合はストライキに突入した.
- これらの政策は中東を新しい戦争に突入させる恐れがある.
- 単騎敵陣に突入する
- 彼女は危険な冒険に突入した
- 突入は難しい
- アラブーイスラエル間の緊張は1967年6月に短期戦に突入した
- 彼は私の事務所に突入してきた
品詞の分類
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