大統領へとは? わかりやすく解説

大統領へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 03:53 UTC 版)

ホスニー・ムバーラク」の記事における「大統領へ」の解説

第四次中東戦争緒戦における電撃作戦功績を、サダト大統領評価されムバラク1975年4月副大統領任命され1976年3月サダト大統領によるソ連との友好協力条約破棄により、供給されなくなったソ連製航空兵器スペアが必要となったことを受けて4月中ソ対立起こしていた中華人民共和国訪れて国家主席毛沢東会見して中国製戦闘機F-6爆撃機H-6などを獲得し代わりにエジプトからはソ連製戦闘機MiG-23などが中国引き渡された。さらに1978年には、アラブ社会主義同盟に代わって創設され国民民主党副総裁となり、サダト大統領後継者として有力視されるようになる。 しかし、1981年10月6日サダト大統領暗殺されたことを受け、10月14日後継大統領就任1982年には国民民主党総裁正式に就任した以来30年間、安定政権維持し続け現代ファラオ」と呼ばれた大統領就任したムバラクは、サダト親米・親イスラエル路線継承しイスラエルパレスチナ中東和平交渉では両者調停役として尽力したイスラエルとの交渉結果1982年4月には第三次中東戦争イスラエル奪われシナイ半島返還実現している。 冷戦期ムバラク外交路線基本的に西側寄りであるが、サダト時代摩擦起こした東側アラブ諸国との外交関係修復努め1984年ソ連と関係正常化し、1990年にはアラブ連盟への復帰成功した冷戦終結後1989年湾岸協力会議対抗してイラクサダム・フセインイエメンアリー・アブドッラー・サーレハヨルダンフセイン1世アラブ協力会議英語版)を結成するも、1990年湾岸戦争ヨルダンイエメン前述の関係からイラクとの戦争反対する中で8月カイロアラブ連盟緊急首脳会議開いてイラク非難決議強行し1991年1月はアメリカ・サウジアラビアを中心とする多国籍軍へのエジプト軍参加決定したまた、かつてともにソ連留学してカイロ訓練を受け、イラク対立してシリアハーフェズ・アサドによるシリア軍参戦決定にも貢献したとされるムバラクアサドサウジ国王ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ親密間柄築いた2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件ではアメリカへの支持表明しイスラム過激派取り締まりにも積極であったこうした親米・親イスラエル路線欧米諸国高評価つながりムバラク2000年以降外貨導入積極的に図ってエジプト国内総生産一定的な成長達成し得る一因となった一方ムバラクサダトの暗殺契機大統領就任当初からエジプト全土非常事態宣言発令し続け強権的統治体制敷いた長期にわたる強権体制結果政権要職ムバラク腹心固められ人事硬直し貧富の差固定化ていったこのような親米・親イスラエル路線、そして独裁政治は、自由を制限され貧困者層による批判対象となり、ムバラク何度イスラム主義者による暗殺未遂事件見舞われた。 2005年には、2006年1月自国開催されるアフリカネイションズカップANC)を自身政権強化利用するため、サッカーエジプト代表チーム合宿定期的に訪問し対外試合勝利後は空港選手団出迎えようになったANCエジプト4大会ぶりの優勝飾りムバラク人気低迷抑える一助となった。 それからしてムバラク支配長期化すると、自身高齢になる一方万一備えて次男国民民主党政策委員長のガマール・ムバラクに大統領職譲り世襲させるのではないかという予測広まっていった。 2010年3月には訪問したドイツ痛み訴え検査した結果胆嚢炎症起きていたために摘出手術を受けるなど体調優れなくなっていったが、同年12月には「国民生活の向上こそ最も大切な仕事」と述べ引退撤回示唆し政権継続意思表明した

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大統領へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 10:26 UTC 版)

ミルトン・オボテ」の記事における「大統領へ」の解説

首相に就任したオボテは議会当時ウガンダ国軍副司令官であったイディ・アミンと共に金の密輸指摘された。議会調査アミン罷免求められたオボテは憲法停止して自ら大統領就任し非常事態として対立する派閥閣僚裁判なく逮捕監禁した。これに対しブガンダ議会独立宣言、オボテはアミンブガンダ王宮攻撃させてこれに応じムテサ2世亡命した1967年オボテは憲法改正し大統領権限強化すると共に連邦制廃止した1969年政党禁止政治的な対立者多く裁判なく投獄された。1969年から1970年には政治パンフレット発行した。"The Common Man's Charter" は彼の社会主義政策概要示したウガンダ国内王国を含む部族主義廃止主張したが、クーデター中断され、後の復帰時には主張されることはなかった。1970年には国内主な企業銀行51%が国有化された。 オボテ政権は軍に依存していた。イディ・アミン無学であった司令官昇任していた。1969年には二人の間に緊張現れるようになった1971年1月オボテのシンガポール訪問中にアミン権力を掌握した。オボテはクーデター2年前から西側との関係にも亀裂があった。クーデター西側から警告され、また支援受けたのだった。オボテはタンザニア逃れた

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