大統領へ
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「ホスニー・ムバーラク」の記事における「大統領へ」の解説
第四次中東戦争の緒戦における電撃作戦の功績を、サダト大統領に評価されたムバラクは1975年4月に副大統領に任命され、1976年3月のサダト大統領によるソ連との友好協力条約の破棄により、供給されなくなったソ連製航空兵器のスペアが必要となったことを受けて翌4月に中ソ対立を起こしていた中華人民共和国を訪れて国家主席の毛沢東と会見して中国製の戦闘機F-6や爆撃機H-6などを獲得し、代わりにエジプトからはソ連製戦闘機のMiG-23などが中国に引き渡された。さらに1978年には、アラブ社会主義同盟に代わって創設された国民民主党の副総裁となり、サダト大統領の後継者として有力視されるようになる。 しかし、1981年10月6日にサダト大統領が暗殺されたことを受け、10月14日に後継の大統領に就任、1982年には国民民主党総裁に正式に就任した。以来約30年間、安定政権を維持し続け「現代のファラオ」と呼ばれた。 大統領に就任したムバラクは、サダトの親米・親イスラエル路線を継承し、イスラエルとパレスチナの中東和平交渉では両者の調停役として尽力した。イスラエルとの交渉の結果、1982年4月には第三次中東戦争でイスラエルに奪われたシナイ半島の返還を実現している。 冷戦期のムバラクの外交路線は基本的に西側寄りであるが、サダト時代に摩擦を起こした東側・アラブ諸国との外交関係の修復に努め、1984年にソ連と関係正常化し、1990年にはアラブ連盟への復帰に成功した。冷戦終結後は1989年に湾岸協力会議に対抗してイラクのサダム・フセイン、イエメンのアリー・アブドッラー・サーレハ、ヨルダンのフセイン1世とアラブ協力会議(英語版)を結成するも、1990年の湾岸戦争でヨルダンやイエメンが前述の関係からイラクとの戦争に反対する中で8月にカイロでアラブ連盟緊急首脳会議を開いてイラク非難決議を強行し、1991年1月はアメリカ・サウジアラビアを中心とする多国籍軍へのエジプト軍の参加を決定した。また、かつてともにソ連に留学してカイロで訓練を受け、イラクと対立してるシリアのハーフェズ・アサドによるシリア軍の参戦決定にも貢献したとされる。ムバラクはアサド、サウジ国王ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズと親密な間柄を築いた。 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件ではアメリカへの支持を表明し、イスラム過激派の取り締まりにも積極的であった。こうした親米・親イスラエル路線は欧米諸国の高評価につながり、ムバラクが2000年以降、外貨導入を積極的に図ってエジプトの国内総生産の一定的な成長を達成し得る一因となった。 一方、ムバラクはサダトの暗殺を契機に大統領就任当初からエジプト全土に非常事態宣言を発令し続け、強権的な統治体制を敷いた。長期にわたる強権体制の結果、政権の要職はムバラクの腹心で固められて人事は硬直し、貧富の差も固定化していった。このような親米・親イスラエル路線、そして独裁政治は、自由を制限された貧困者層による批判の対象となり、ムバラクは何度かイスラム主義者による暗殺未遂事件に見舞われた。 2005年には、2006年1月に自国開催されるアフリカネイションズカップ(ANC)を自身の政権強化に利用するため、サッカーエジプト代表のチーム合宿を定期的に訪問し、対外試合の勝利後は空港で選手団を出迎えるようになった。ANCでエジプトは4大会ぶりの優勝を飾り、ムバラクの人気低迷を抑える一助となった。 それからしてムバラクの支配が長期化すると、自身が高齢になる一方、万一に備えて次男で国民民主党政策委員長のガマール・ムバラクに大統領職を譲り、世襲させるのではないかという予測が広まっていった。 2010年3月には訪問したドイツで痛みを訴え検査した結果、胆嚢に炎症が起きていたために摘出手術を受けるなど体調は優れなくなっていったが、同年12月には「国民生活の向上こそ最も大切な仕事」と述べ引退撤回を示唆し、政権継続の意思を表明した。
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大統領へ
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首相に就任したオボテは議会で当時ウガンダ国軍の副司令官であったイディ・アミンと共に金の密輸を指摘された。議会で調査とアミンの罷免を求められたオボテは憲法を停止して自ら大統領に就任し、非常事態として対立する派閥の閣僚を裁判なく逮捕監禁した。これに対しブガンダ議会が独立を宣言、オボテはアミンにブガンダ王宮を攻撃させてこれに応じ、ムテサ2世は亡命した。1967年オボテは憲法を改正して大統領権限を強化すると共に連邦制を廃止した。1969年政党を禁止、政治的な対立者の多くは裁判なく投獄された。1969年から1970年には政治パンフレットを発行した。"The Common Man's Charter" は彼の社会主義政策の概要を示した。ウガンダ国内の王国を含む部族主義の廃止を主張したが、クーデターで中断され、後の復帰時には主張されることはなかった。1970年には国内の主な企業と銀行の株の51%が国有化された。 オボテ政権は軍に依存していた。イディ・アミンは無学であったが司令官に昇任していた。1969年には二人の間に緊張が現れるようになった。1971年1月オボテのシンガポール訪問中にアミンが権力を掌握した。オボテはクーデターの2年前から西側との関係にも亀裂があった。クーデターは西側から警告され、また支援を受けたものだった。オボテはタンザニアに逃れた。
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