首相に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/14 14:31 UTC 版)
7月21日、大統領選の決選投票で、毛派の推す共和制活動家ラム・ラジャ・プラサド・シンが落選し、その擁立をめぐってのしこりで組閣が難しくなった。プラチャンダは組閣の放棄を示唆し、7月22日、正式に野党になることを決定した。しかし、大統領のラーム・バラン・ヤーダブがプラチャンダに「政党間の合意による政府」を組織するよう指示。政党間の合意には至らなかったが、一時は関係が険悪になっていた統一共産党、マデシ人権フォーラムとの関係が改善し、ネパール会議派が下野する方針を固めた。 プラチャンダは8月15日の制憲議会の投票で464票の大量得票で首相に選出された。対抗馬のネパール会議派のシェール・バハドゥル・デウバ元首相の得票は113票に留まった。 なお、首相就任後、プラチャンダはネパール人民解放軍の最高司令官を辞任し、制憲議会議員となっていたプラバカールとアナンタも副司令官を辞任した。 8月18日に挙行された首相就任式には、プラチャンダとしては珍しく、スーツとトーピー(ネパール帽)という出で立ちで臨んだ(外部リンク参照)。 組閣は難航した。もう少しで内閣が成立するという段階でネパール統一共産党が内閣No.2のポストを要求し入閣予定者6人の就任を保留した。 8月22日、初めての外遊として北京オリンピック開会式出席のため中華人民共和国を訪問。翌日、胡錦濤国家主席、温家宝首相と会談した。ネパールの首相の初めての外遊はインドが慣例で、インドは神経を尖らせた。 帰国後、プラチャンダは統一共産党に譲歩し、単独の副首相ポストを与えることに同意した。8月31日、毛沢東派のほか統一共産党、マデシ人権フォーラム、人民戦線ネパール、友愛党、ネパール共産党ユナイテッド派からなる24人の連立内閣が発足した。 この政権では、キャスティング・ボートを握っていた統一共産党が基本的に毛沢東派を信用しておらず、また、マデシ人権フォーラムと毛沢東派はかつて殺し合いをするほど対立した過去があり、そもそも大きな不安定要因を抱えた政権であった。 また、10年間敵味方として戦ってきた人民解放軍と国軍の合同の問題も政権のアキレス腱となった。これは、「包括的和平協定」での7党連合と毛派の間の合意事項で、プラチャンダはじめマオイスト派はこれに積極的であったが、国軍制服組のトップ、ルークマングド・カトワル陸軍参謀総長は公然とこれに反対していた。人民解放軍を国軍に編入すると国軍が政治化し、中立性が保てないというのがその理由である。カトワルは元国王・ギャネンドラの側近であり、必ずしも心底からプラチャンダ政権に忠誠を誓っていなかった。
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