制憲議会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:27 UTC 版)
独立を宣言する前、ペドロ王子は制憲と立法議会への代表を選出するための選挙を呼び掛けた。1823年5月3日、制憲議会は憲法起草を開始した。議会の議員定数は100人だったが、実際に会議に出席したのは88人だった。議員選挙は間接選挙で制限選挙であり、政党に属した者はいなかった(当時はまだ政党が結成されなかった)が議会内の派閥はあった。先のポルトガル系ブラジル人と現地派のほか、絶対主義派(「背むし」と呼ばれた)と共和派もいた。しかし共和派は影響力も支持も少ない数人だけであり、共和派以外は全員君主主義者であった。絶対主義派は最初はブラジルの独立に反対したが、それが不可避になるとブラジルの自己決定権を受け入れた。彼らは立憲君主制に反対、絶対君主制を支持した。ポルトガル系ブラジル人と現地派は立憲君主制を支持、うち前者は中央集権を、後者は緩い連邦制を支持した。 憲法案は立憲議会に提出され、議員は憲法の発布を準備したが、現地派は前年の「ボニファチア」で受けた迫害を報復しようとして、最初からボニファチオ内閣の倒閣を試みた。一方、絶対主義派はボニファチオが発布した、ポルトガルで生まれた人の特権を廃止した2つの発令に不満だった。現地派と絶対主義派はイデオロギーの差が広かったが、ボニファチオという共通の敵を倒すために手を結んだ。ボニファチオは自身の恣意的な行動で自身の派閥からを失いつつあり、さらに奴隷制度の廃止など、ボニファチオの(先見の明があるともいえるが)急進的な思想も彼の反対者を増やした。やがて、ボニファチオを支持しない者が議会で多数を占めるようになり、彼らはボニファチオ内閣の罷免を求める請願書に署名した。ボニファチオ内閣の罷免と議会との不必要な紛争という2つの選択肢しかない状況だったため、ペドロ1世は前者を選んだ。 ペドロ1世は現地派の1人に組閣を命じた。その結果、ボニファチオを支持したポルトガル系ブラジル人は野党に回り、内閣と議会での政敵を攻撃するための新聞を出版した。議会の内部闘争を悪化させる些細な事件が立て続けにおき、議員たちは制憲の仕事に見向きもせず政敵との競争に明け暮れた。その結果、数か月後も憲法案272か条のうち審理が終わったのは24か条だけだった。 ペドロ1世は議会を解散する勅令に署名した(これはボニファチオですら皇帝大権であると信じていた)。ボニファチオを含む議員6名がフランスに追放されたが、フランスに住む限りブラジル政府からの年金を受け取ることができた。「ボニファチア」で起訴された現地派は恩赦された。議会解散で失職した議員のうち、33名は後に上院議員になり、28名は国務大臣になった。また、18名が州知事を、7名が国家評議会の議員に、4名が摂政を務めた。 1823年11月13日、ペドロ1世は新しく成立した国家評議会に憲法起草を命じ、憲法草案はその15日後に完成した。国家評議会はポルトガル系ブラジル人と現地派の両派で構成された。憲法起草にあたって、国家評議会は先の制憲会議に提出され、審議が終わらなかった憲法草案を参考にした。憲法草案が完成すると、草案は各地の地方議会に送られた。地方議会は草案の承認を求められるとともに、新しい制憲議会の承認を求めるべきかの決定も求められた、しかし、一部の地方議会は憲法草案が制憲議会の承認を待たずにすぐにブラジルの憲法として承認されるべきと提案した。この提案が全国に広がると、ブラジル人の地方代表として選出された地方議会の大半はすぐにブラジル憲法として承認することを議決した。これにより、ブラジル憲法は1824年3月25日にリオデジャネイロ旧大聖堂で発布され、憲法への宣誓が厳粛に行われた。
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