入閣
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「フランソワーズ・ジルー」の記事における「入閣」の解説
セルヴァン=シュレベールと別れ、『レクスプレス』を離れたジルーは、1974年、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領により女性の地位副大臣に任命された。フランス内閣に初めて女性の権利や地位に関する大臣が置かれたのである。1974年にフランス内閣に占める女性の割合は9%であったが、すでに弁護士ジゼル・アリミとシモーヌ・ド・ボーヴォワールが人工妊娠中絶の合法化を求める団体「女性のために選択する」(通称「選択権」; 米国のプロチョイスに相当) を立ち上げるなど、1970年代は女性解放運動(MLF) が勢いを増した時代であり、実際、ジルーの入閣と同時にシモーヌ・ヴェイユも厚生大臣に任命され、中絶の合法化に関する法案を国民議会に上程。いわゆる「ヴェイユ法」が成立した。個性の強いジルーとヴェイユは衝突することもあったが、共に女性の地位向上のために尽力し、ジルーが提案した「100の政策」のうち、特に重要な女性の保健、教育、労働条件、農業における女性の地位、これまで男性に限定されていた職業への女性の参入に関する約30の政策が採択された。 1976年、レイモン・バール内閣が成立すると、ジルーは引き続き文化副大臣に任命された。 1977年の地方選挙では、フランス民主連合からジスカール・デスタンの支持を受けてパリ15区の候補として出馬したが、レジスタンス勲章を巡ってスキャンダルが持ち上がった。ジルーは亡くなった姉のジャナーヌと共にレジスタンスに参加し、この勲章を授与されることになっていたが、実際には受け取りに行かなかったために公式一覧に名前が記載されておらず、したがって、不正にレジスタンス勲章を受けたと訴えられたのである。この結果、ジルーは立候補を取り下げざるを得なくなり、疑いが晴れたのは2年後の1979年のことであった。
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