入閣と政友会の除名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:56 UTC 版)
昭和9年(1934年)1月、床次は衆議院で政党は大同団結し、挙国一致て国難にあたる旨を主張した(大同団結運動)。3月22日、反鈴木総裁派の政友会議員82人と民政党議員52人が私的懇談会「政党連携懇話会」を結成して運動を開始したが、参加した政友会議員は床次派、久原派が中心であった。政党内閣が中断された中、床次は政党政治復活のためには民政党と政友会の連携を主張したが、政友会の単独政権論を執る鈴木総裁派と非総裁派の対立が深まった。7月に成立した岡田内閣から政友会に挙国一致の協力打診があったが政友会では野党宣言を行った。岡田啓介は政友会の切り崩しを狙って床次に入閣を促し、党内の反対を押し切った床次は逓信大臣として入閣し政友会を除名された。この時に岡田の側近(福田耕。のちに首相秘書官)が政友会から何人脱党するのか床次に尋ねたが、「それは自分一人と考えて欲しい」と回答があった。また、床次は「自分一人でも入閣するが、閣僚の椅子は三つ用意してほしい」とも答えている。結局、床次の他に山崎達之輔、内田信也が入閣したほか、12人が脱党して政友会を除名された。山崎や内田はのちに昭和会を結成することになる。迫水久常は自著で、「政友会を脱党して昭和会を結成した床次他二名を入閣させた」と記している。
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