入関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 06:21 UTC 版)
ホンタイジ在位中は漢軍鑲黄旗指揮下として表面上厚遇されながらも具体的な官職につく事のなかった洪承疇だが、次の順治帝時期になると風向きが変わってくる。崇禎17年(順治元年・1644年)3月に李自成によって明が滅亡すると、翌月には清は睿親王ドルゴンを大将軍として南征を開始する。洪承疇はその軍にドルゴンの軍師として従軍する。 洪承疇はドルゴンに「意表を突く」事を献策する。これは現在の「清・李自成軍(大順)・明の遺臣」の三つ巴の状況にあってとにかく敵を李自成軍に絞り込み、薊州・密雲から速やかに北京を制圧する、というものだった。そのためには、人民も殺さず、略奪も行わず、降伏する明の遺臣は積極的に登用するべきと説いた。ドルゴンはこの策を受け入れて布告したため、北直隷・山東・山西などがスムーズに清の支配下となり、旧暦5月2日(6月6日)にドルゴンが北京に到着した時には明の文武諸臣が城外まで出迎えに出てきて即日入城を果たした。 ドルゴンの北京入城間もない旧暦6月1日(7月4日)、洪承疇は明の頃の官職である兵部尚書兼都察院右都御史に任命されたうえ、内院官佐理機務・秘書院大学士にも任じられて漢人大学士の筆頭になり、この頃登用された明の元大学士馮銓と共にドルゴンの指南役として明の政治制度を清朝に適用していく作業に従事した。
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