突然の崩御
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 06:16 UTC 版)
1642年、アバタイが大将となり、満州、モンゴル、漢の三族からなる大軍を率いて、再び清軍は関内に入った。ホンタイジはアバタイに対して、農民軍と明への対応を指示した。 和平を求める使者が来れば清皇帝に伝えること。 李自成軍と対峙した時は明征伐のために入関したことを十分に説明し、衝突を避けること。 農民軍兵を誤殺しないように、部下に厳重に注意すること。 農民軍が清に連絡を取りたい場合は手紙や使者を瀋陽に送ること。 そしてアバタイは雁門関を攻撃して、白騰蛟と白広恩の部隊を打ち破った。その後、河関を攻撃した後に衾州府を攻略した際、朱衣珮ら諸王及び官司数千人を虐殺した。 1643年5月、大量の捕虜と戦利品と共に瀋陽に凱旋した。アバタイが凱旋して3か月後、東北部を完全に掌握したホンタイジであったが、1643年8月9日に清寧宮で倒れ、急死した。51歳であった。死因については、脳出血などの疾患によるものだったのではないかとする研究がある。遼寧省瀋陽市の北にある昭陵に葬られた。
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