「皇帝」即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 05:49 UTC 版)
912年、レオーン6世の崩御で弟のアレクサンドロスが即位し、プレスラフへの貢納金の支払いを停止すると、翌年にシメオンは軍勢をトラキア領に進め、東ローマ首都のコンスタンティノープル城壁前で野営を始める。市内は皇帝アレクサンドロスの突然の崩御(皇位はレオンの遺児・コンスタンティノス7世に継がれた)や軍司令官の謀反なども重なり大混乱に陥った。しかし、シメオンは城塞都市コンスタンティノープルの堅固な守りを武力によって攻略できなかったため、東ローマとの交渉のため護衛と共に市内に迎え入れられた。その結果、遅延分の貢納金の支払いと、皇帝とシメオンの娘との婚約、さらにある種の戴冠式がブラケルナエ宮殿の聖処女教会で執り行われた。 東ローマ総主教ニコラオス・ミュスティコスはシメオンの頭に(王冠ではなく)自分の典礼用の頭飾りを載せて彼を「皇帝(バシレウス)」と宣言した。この儀式は「シメオンをビザンツの共治帝として戴冠した」という解釈と「シメオンを“ブルガリア”の皇帝として戴冠した」という二つの解釈が存在し、当時から問題視された。権威ある王冠ではなく頭飾りを使う一方で、外国君主を示す「アルコン」ではなく東ローマ皇帝公式称号の「バシレウス」と呼ぶなど儀式に曖昧な表現を用いたのは、ブラウニングによると総主教による東ローマ側とシメオン側双方への苦心の末の配慮の結果としている。 シメオンが913年の秋にプレスラフに帰還すると、総主教は責任を追及されて更迭、政治は皇帝の母・ゾエが掌握し、婚約は破棄されて戴冠も無効と宣言された。翌年、ブルガリア軍は再びトラキアへ侵入し、アドリアノープルを占領。915~916年にはデュラキウムとテッサロニケに侵攻し913年の戴冠式の承認を求めた。東ローマ政府はシメオンを正当な皇帝と認めつつも、裏ではブルガリアへの遠征計画を進めており、それはブルガリア北東部をレオン・フォカス率いる陸軍が攻め、黒海沿岸をロマノス1世レカペノスの艦隊が先行して後背部を取り、さらにペチェネグ人を説いて北方から攻撃させるというものだった。 917年夏にその遠征が行われたが、8月20日にアンキアロス近くのアヘルス川近郊でブルガリア軍が東ローマ陸軍を奇襲して敗走させ、指揮官のレオンは単身メセンブリアに逃げ込んだ。一方で東ローマ艦隊がドナウ河口に到着するも、ペチェネグ人を説いて連れてきたジョン・ボガスと司令官ロマノスが口論を起こしたため輸送は取り止めとなり、結局遠征は失敗に終わった。元総主教のニコラオス・ミュステュコスから停戦を願う書簡が届くも、シメオンは進軍を続けコンスタンティノープルの北部カタシェルタエで東ローマ軍を夜襲で壊滅させた。しかし、東ローマの外交政策によりブルガリア西部のセルビアが敵対行動に出たためシメオンは軍を引き上げ、セルビアに懲罰遠征に向かって反対勢力を鎮圧することとなった。
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