籌安会を組織
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1915年(民国4年)8月、楊度は袁世凱の皇帝即位運動を開始する。まず同月14日、楊度は孫毓筠・厳復・胡瑛・劉師培・李燮和とともに皇帝即位推進団体として籌安会を組織して「六君子」と呼ばれた。23日には、楊は籌安会宣言を起草し、さらに「君憲救国論」という論文を発表している。9月以降は、全国各地の請願団体組織に奔走した。10月、参政院が組織した国体(国家体制)を決定するための国民代表大会において、楊が総代表に選出されている。こうして12月、袁は皇帝即位の受諾を宣言した。 しかし梁啓超・蔡鍔・唐継尭らは、袁世凱の皇帝即位に反発し、雲南省で護国軍を組織した。こうして護国戦争が勃発する。国内世論も護国軍を支持し、南方の督軍も次々と護国軍支持に転じた。そのため3月22日には、袁は皇帝即位取消しに追い込まれ、6月6日、失意のうちに病没してしまう。黎元洪が後継総統となると、7月14日に、皇帝即位をそそのかしたとして楊度らを指名手配した。楊は天津の租界に逃げ込んでいる。 1917年(民国6年)春、張勲の招聘に応じて、楊度はこれと面談している。しかし、張の復古主義的な思想は、楊の立憲君主制思想とは相容れないものであった。そのため同年7月の張勲復辟では、楊はこれに参加も支持もなさなかった。以後しばらくは禅宗の研究に励むことになる。
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