張勲とは? わかりやすく解説

ちょう‐くん〔チヤウ‐〕【張勲】

読み方:ちょうくん

[1854〜1923]中国清末北洋軍閥軍人江西省の人。字(あざな)は少軒。袁世凱(えんせいがい)のもとで雲南江南提督などを歴任、のち安徽(あんき)督軍1917年北京入り清朝復辟(ふくへき)を宣言したが、段祺瑞(だんきずい)の討逆軍に敗れたチャンシュン


張勲Zhang Xun

チョウクン
チヤウクン

(?~?)
大将

袁術大将袁術伝》。

袁術揚州刺史陳温殺して揚州占拠したとき、張勲は橋蕤とともに大将取り立てられた《袁術伝》。孫策袁術のもとに身を寄せたとき、張勲・橋蕤心を傾けて彼を尊敬したという《討逆伝》。

建安二年(一九七)、袁術天命下された称して、帝号を僭称して「仲家」国を建てた韓胤使者として呂布の女を皇子妃にしようとしたが、呂布韓胤捕縛して許に送り飛ばしてしまった。袁術激怒し大将張勲と橋蕤韓暹楊奉らに歩騎数万人を授け七つの道から呂布攻撃させた《後漢書袁術・同呂布伝》。

呂布兵士三千人と騎馬四百匹を持つばかりであったが、陳珪が「韓暹楊奉袁術は、にわか集め軍勢に過ぎません。倅陳登計略用いて彼らの仲を裂きましょうと言うのを採用し韓暹楊奉手紙送った。「二将軍御車お導きし、呂布は自ら董卓殺しましたご一緒功名立てて史書名を連ねるはずでしたが、いま袁術叛逆を討つべきなのに、どうして呂布を伐とうとなさるのですか?」。同時に袁術軍破ったのちは戦利品全て与えよう約束した後漢書呂布伝》。韓暹楊奉喜び下邳まで来たところで寝返り呂布軍挟撃して袁術軍大破した。張勲らの軍勢潰走し、ほとんどの者が落ちて死んだ後漢書呂布伝》。

九月袁術陳国攻撃して陳王劉寵および陳国駱俊殺したが、曹操が自らそれを征討ようとしたので、袁術大い驚いてすぐさま淮水渡って逃走した。張勲は橋蕤とともに蘄県に残って曹操防ごうとしたが、橋蕤李豊梁綱楽就らが斬られたので張勲は敗走した武帝紀・後漢書袁術伝》。

同四年に袁術病死すると、張勲は長史楊弘とともに袁術軍残党引き連れて孫策身を寄せようとした。ところが廬江太守劉勲待ち伏せしており、すっかり生け捕りにされ、袁術珍宝奪い上げられてしまった。劉勲孫策そそのかされ出征したとき、孫策廬江乗っ取っている《討逆伝》。張勲らの身柄孫策のもとに移送されたのだろう。

参照袁術 / 楽就 / 韓胤 / 韓暹 / 橋蕤 / 孫策 / 陳温 / 陳珪 / 陳登 / 董卓 / 楊弘 / 楊奉 / 駱俊 / 李豊 / 劉勲 / 劉寵 / 呂布 / 梁綱 / 下邳国 / 蘄県 / 許県 / 仲(仲家) / 陳国 / 揚州 / 廬江郡 / 淮水 / 王 / 刺史 / 相 / 太守 / 大将 / 長史


張勲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 09:07 UTC 版)

張勲張勳(ちょう くん)




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