後漢書とは? わかりやすく解説

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ごかんじょ【後漢書】

読み方:ごかんじょ

中国二十四史の一。後漢歴史記した書。全120巻。本紀10巻列伝80巻は南朝宋范曄(はんよう)の撰。志30巻は晋の司馬彪(しばひょう)の「続(しょく)漢書」の志が充用されている。


後漢書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 10:17 UTC 版)

後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書で、二十四史の一つ。紀伝体の体裁を取り、本紀10巻・列伝80巻・志30巻の全120巻からなる。「本紀」「列伝」の編纂者は南朝宋范曄で、「志」の編纂者は西晋司馬彪





後漢書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 05:24 UTC 版)

大秦」の記事における「後漢書」の解説

和帝永元九年(97年)に西域都護班超甘英使者として大秦派遣した大秦初出である。この後甘英シリアにまで到達し地中海渡って大秦へ赴こうとしたが、パルティア人の船乗りに「大秦までは長ければ2年以上も航海せねばならず、長期間陸地見ないために心を病んで亡くなる者さえいる」と言われたために大秦に行くことを諦めたとの記述がある。 但し、後漢書に先行する『三国志』魏書 烏丸鮮卑東夷伝末尾裴松之による注記の『魏略西戎伝には、班超甘英大秦派遣したという記事はない。 「桓帝の延憙九年(166年)に大秦国王の安敦アントン)が遣わした使者日南郡訪れて象牙犀角玳瑁献上した初めて(大秦と漢は)交流を持つことができた」 安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス在位161年 - 180年)、またはその先皇帝であるアントニヌス・ピウス在位138年 - 161年)の「アントニヌス」の音を写したものと考えられる。ただローマ側史書には使者派遣したという記述見られず、また献上品インドアフリカ産物であることからローマ帝国商人皇帝使者偽って中国との貿易企てたではないか考えられる『後漢書』献上物に特に珍奇なものはなかった、間違って伝えられたからではないかと書き記している)。なお、日南郡とは現在のベトナム社会主義共和国フエ付近に置かれていた後漢の郡である。

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後漢書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 09:51 UTC 版)

狗邪韓国」の記事における「後漢書」の解説

『後漢書』東夷伝列伝第七十五)は三韓位置関係をより具体的に馬韓西部在り54国を有し、その北は楽浪郡と、南は倭と接する。辰韓東部在り12国を有し、その北は濊貊接する。弁辰辰韓の南に在り、また十二国有し、その南はまた倭と接する。。 と述べ、「韓」の西岸馬韓が、東岸北部辰韓東岸南部弁辰辰韓)があり、馬韓弁辰各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも朝鮮半島南海岸部から「倭」の領域であるとしている。 『後漢書』東夷伝倭人条では、 倭は韓の東南大海中の山島によっており、およそ百余国ある。(前漢の)武帝が(衛氏)朝鮮滅ぼしてから、三十余国が漢に使訳を通じてきた。国々は皆が王を称し代々その家系続いている。諸王の中の大王たる大倭王は、邪馬臺国居する。楽浪郡は、その国(邪馬台国)を去ること一万二千里、その(倭の)西北境界にあたる拘邪韓国を去ること七千余里。その地はだいたい会稽郡東冶の東にあり、朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである。 とあり、「大倭王」が住う邪馬台国楽浪郡から「一万二千里」、倭国西北境界である狗邪韓国楽浪郡から「七千里」と記されている。

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後漢書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 06:43 UTC 版)

赤兎馬」の記事における「後漢書」の解説

『後漢書』75劉焉袁術呂布列傳65」に「布常御良馬 號曰赤兔 能馳城飛塹」とある。

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後漢書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/30 09:09 UTC 版)

黒歯国」の記事における「後漢書」の解説

『後漢書』倭傳では以下のとおり記述される女王国から南4000余里の小人国から東南に船で1年黒歯国に着く。 自女王國南四千餘里至朱儒國人三四尺 自朱儒東南行船一年裸國 黑齒國 使驛所傳 於此矣 — 『後漢書』東夷列傳第七十五

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後漢書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/11 08:51 UTC 版)

古代朝鮮半島関連の中国文献」の記事における「後漢書」の解説

辰韓傳有似秦語故或名之為秦韓。(秦語に似ている故に、これを秦韓とも呼んでいる。) 弁辰弁辰辰韓雑居城郭衣服皆同、言語風俗有異。(弁辰辰韓雑居しており、城郭などいずれも同じだが、言語風俗異なる。) 東夷弁辰其国近倭、故頗有文身者。(其の国は倭に近く身体刺青をした者頗る多い)

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