雲台二十八将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:00 UTC 版)
雲台二十八将(うんだいにじゅうはっしょう)は、後漢の光武帝の天下統一を助けた28人の功臣である。
- ^ 『東観漢記校注』は『資治通鑑』巻44・漢紀36を根拠として永平3年2月とする。
- ^ a b 『後漢書』列伝12。
- ^ 『後漢書』列伝7・馮異伝。
- ^ 『後漢書』列伝14・馬援伝。
- ^ 鄧禹の食邑を指す。耿弇の食邑は二県、賈復の食邑は六県。
- ^ 『論語』為政篇に「之を道(みちび)くに政を以てし、之を斉(ととの)えるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し」という。
- ^ 賈復は朱祜らから宰相の適任者として推薦されたが、光武帝が国政の実務上の責任を三公に負わせ、功臣を用いなかったため、賈復は宰相に就任しなかった。ただし鄧禹・李通・賈復は三公・九卿とともに国家の大事について議論に参与した。『後漢書』列伝7・賈復伝。
- ^ 安帝は永初6年の詔(注3)により、二十八将の後裔のうち世嗣を絶やしたり罪によって封地を失った者の子孫で後継の資格を有すべき者を列挙させ、遺功を顕彰した。翌年には二十八将の子孫で封地を絶たれた者をみな紹封した。
- ^ 『後漢書』列伝12による。なお、『資治通鑑』永平3年2月条では鄧禹、馬成、呉漢、王梁、賈復、陳俊、耿弇、杜茂、寇恂、傅俊、岑彭、堅鐔、馮異、王覇、朱祜、任光、祭遵、李忠、景丹、萬脩、蓋延、邳彤、銚期、劉植、耿純、臧宮、馬武、劉隆の順に配列されている。これに対し胡三省は『通鑑』注において司馬光による序列の誤りを指摘している。王先謙『後漢書集解』に引く王補の説も胡注を採り、「鄧禹、馬成、呉漢、王梁…」と一列に配した『後漢書』刊本の存在を指摘した上これは誤りであるという。鄧禹から劉隆までを上段に、馬成から劉植までを下段に置いて28人を上下二列に配した明代の汲古閣本『後漢書』が范曄による本来の表記を伝えているとしている。序列を誤った刊本は上下二列の体裁を誤読した結果ということである。
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