王覇とは? わかりやすく解説

おう‐は〔ワウ‐〕【王覇】

読み方:おうは

王道覇道王者覇者


王覇

読み方:オウハ(ouha)

仁徳をもって治政を行うことと、武力をもって国を治め覇道


王覇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/02 09:07 UTC 版)

王 覇(おう は、? - 59年)は、後漢の武将。字は元伯(げんはく)。潁川郡潁陽県(河南省襄城県)の人(『後漢書』列伝10・本伝)[1]光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第23位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

事跡

姓名 王覇
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 59年永平2年)
字・別号 元伯(字)
本貫・出身地等 豫州潁川郡潁陽県
職官 功曹令史〔劉秀〕→軍正〔劉秀〕

→偏将軍〔後漢〕→討虜将軍〔後漢〕
→上谷太守〔後漢〕

爵位・号等 関内侯〔劉秀〕→王郷侯〔劉秀(後漢)〕

→富波侯〔後漢〕→向侯〔後漢〕
→淮陵侯〔後漢〕

陣営・所属等 光武帝(劉秀)
家族・一族 子:王符
孫: 王度
曾孫:王歆

若くして獄吏となる。更始元年(23年)夏、漢の復興を旗印に更始帝劉玄配下の劉秀軍が潁陽に至ると、王覇は賓客数十人を率いて参加し、北上するも陽関に新の百万の軍勢を見つけると、劉秀共々昆陽に退き、ここでこの百万の軍、王莽配下の大司徒王尋大司空王邑の兵を破った。その後、一旦帰郷した。

劉秀が劉玄の司隷校尉として潁陽に至った時、王覇は父に劉秀への従軍を願い出る。王覇の父は「吾は老いたり。軍の旅路には耐えられぬ。お前は行って努めよ」と激励し、王覇はまた劉秀に従った。劉秀が行大司馬となると、王覇は功曹令史として河北攻略に参加した。

更始元年(23年)冬、邯鄲で挙兵した王郎が劉秀を追捕しようとした際、劉秀軍は王郎の勢力下である薊県にいた。

更始2年(24年)春、王覇は涿郡虖池河渡河の功をもって軍正(軍の目付け役)となり、爵は関内侯とされた。反撃に転じた劉秀軍は邯鄲を攻め、この年夏、王覇は王郎を斬って王郷侯に封ぜられた。

建武1年(25年)、劉秀が即位すると、王覇は偏将軍を拝命した。

建武2年(26年)、富波侯に封ぜられた。

建武4年(28年)、捕虜将軍馬武と共同で、新末後漢初の群雄の一人の劉紆劉永の子)配下の周建蘇茂と農民反乱集団の五校との連合軍を垂恵聚(安徽省亳州市)に討ち、苦戦の末これを破った。

建武5年(29年)、討虜将軍となった。

建武6年(30年)、新安河南省)へ屯田した。

建武8年(32年)、新安から函谷関へ屯田した。滎陽・中牟(河南省)の盗賊を討ち平らげる。

建武9年(33年)、大司馬呉漢・横野大将軍王常・建義大将軍朱祜・破姦将軍侯進らの軍5万余人とともに、北方に割拠する盧芳の軍を高柳(山西省大同市陽高県)で討たんとするも敵対する匈奴の援軍に苦戦した。王覇は上谷太守となるも、従来通り屯兵を指揮し、上谷郡外での軍事行動も許された。

建武10年(34年)、また呉漢ら4将軍の兵6万人や驃騎大将軍杜茂の軍勢とともに、遂に山西の北部で盧芳・匈奴を討った。王覇は先鋒として時に戦果を挙げたが、戦いは決着しなかった。

建武13年(37年)、食邑を加増され向侯に封ぜられた。当時、盧芳は匈奴・烏桓と連合してしばしば北辺を侵犯していた。王覇は詔により、免罪された受刑者六千余人を率いて杜茂とともに道路を整備し、代(山西省忻州市代県)から平城(山西省大同市雲州区)までの三百余里(約120km)にわたり防塁を築造した。王覇は上谷郡で二十余年を過ごした。

建武30年(54年)、淮陵侯に封ぜられた。

永平2年(59年)、病気により辞職し、後数カ月で逝去した。

人柄・逸話

王覇
  • 代々法律を修めた家に生まれ、父は郡の決曹掾であった。王覇が獄吏の職を楽しまないため、父が長安に留学させた。
  • 涿郡虖池河渡河の功は以下の通りである。
    劉秀が薊から南下し涿郡中を逃れる途上、前方の虖池河に船がなく渡れない旨を斥候が報告し、かつ王郎の追手が背後に迫ったことがあった。王覇は属官たちの恐怖心を除くため、自ら河を偵察して「河は凍り付いていて渡る事ができます」と偽って報告した。劉秀の軍勢が河に至ると果たして水は凍り付いており、ほぼ全員が渡河できた。劉秀は「我が衆を安心させて渡河し得たのは、そなたの力である」と賞した。王覇は「これは殿の至徳、神霊の助けです。武王白魚の応も及びません」と答えた。劉秀はまた「王覇は謀り事をもって大事をなした。ほとんど天瑞である」と讃えた。「武王白魚の応」とは、武王紂王を討つに際し、渡河した時に白魚が舟に飛び込んだという説話であり、勝利の瑞兆とされる。『史記』周本紀や今文『尚書』太誓篇などにみえる。
  • 王覇は河北攻略では、同じ潁川郡出身の臧宮傅俊と陣営を共にするも、独りよく兵士を慰撫し、死者は自らの衣服とともに納棺し、負傷者も自ら養生した。劉秀が臧宮・傅俊を騎都尉とし、王覇を偏将軍として両人の兵の指揮権を与えたのは、王覇が軍務に通じ兵士を愛し、単独での任務に堪える力量があったからである。
  • 河北攻略は苦難の連続で、劉秀のもとから逃げ出すものが相次いだ。顔なじみが減っているのをみて、劉秀は王覇に、「潁川以来従っているのはお前だけになってしまった。疾風、勁草を知る(強い風が吹いてみて強い草がわかる、転じて困難に遭遇して初めて人の才能や人徳がわかるということ)だな。」と語った。
  • 王覇は匈奴・烏桓と交戦すること数十から百回に及んだため、北辺の事情に精通するようになった。匈奴と和親すべき旨しばしば上書し、また河北の物資運搬には水運を用いて陸運の負担を減じるべき旨献策した。その提案はみな実行され、また南匈奴・烏桓は建武25年に漢に帰順した。

脚注

  1. ^ 『後漢書』巻20、銚期王覇祭遵伝第10、王覇伝。

参考文献

  • 范曄著、『後漢書』。
    • 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。
    • 岩波書店『後漢書〈第3冊〉列伝(1) 巻一〜巻十二』2002/5/29 范曄(著), 吉川忠夫(著)

王霸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/29 14:03 UTC 版)

王霸(おうは)は、中国唐末の農民反乱指導者黄巣が建てた私年号。

878年 - 880年

西暦との対照表

王霸 元年 2年 3年
西暦 878年 879年 880年
干支 戊戌 己亥 庚子

出典

新唐書』巻二百二十五下 列伝本第一百五十下 逆臣下 黄巣

当此時,巣方囲亳州未下,君長弟譲率仙芝潰党帰巣,推巣為王,号衝天大将軍,署拜官属,駆河南、山南之民十余万掠淮南,建元王霸。

参考文献

  • 李崇智『中国歴代年号考 修訂本』(北京:中華書局,2001年1月) ISBN 7101025129

関連項目


王覇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:54 UTC 版)

孟子」の記事における「王覇」の解説

孟子古今君主を「王者」と「覇者」とに、そして政道を「王道」と「覇道」とに弁別し前者後者よりも優れている説いた孟子によれば覇者とは武力によって借り物仁政を行う者であり、そのため大国武力なければ覇者となって人民他国服従させることはできない対して王者とは、徳によって本当仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民他国はその徳を慕って心服するようになる故に孟子は、覇者全否定はしないものの、「五覇三王(夏の禹王と殷の湯王と周の文王または武王)の罪人なり。今の諸侯五覇罪人なり。今の大夫は今の諸侯罪人なり」(告子章句下)と述べて5人の覇者当時群雄割拠していた諸侯たちを痛烈に批判し堯・舜三王の「先王の道」(王道)を行うべきだと主張したのである

※この「王覇」の解説は、「孟子」の解説の一部です。
「王覇」を含む「孟子」の記事については、「孟子」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「王覇」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「王覇」の関連用語

王覇のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



王覇のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの王覇 (改訂履歴)、王霸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの孟子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS