しき【史記】
史記 (しき)
史記〈孝文本紀第十/〉
主名称: | 史記〈孝文本紀第十/〉 |
指定番号: | 113 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1952.11.22(昭和27.11.22) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 延久五年二月大江家国書写加点奥書 |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 平安 |
年代: | 1073 |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の作品。 |
史記〈夏本紀第二、秦本紀第五/(高山寺本)〉
主名称: | 史記〈夏本紀第二、秦本紀第五/(高山寺本)〉 |
指定番号: | 120 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1952.11.22(昭和27.11.22) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 秦本紀 天養二年書写奥書 |
員数: | 2巻 |
時代区分: | 平安 |
年代: | 1145 |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の作品。 |
史記〈呂后本紀第九/〉
主名称: | 史記〈呂后本紀第九/〉 |
指定番号: | 152 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1952.11.22(昭和27.11.22) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 延久五年正月大江家国書写加点奥書 |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 平安 |
年代: | 1073 |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の作品。 |
史記〈孝景本紀第十一/〉
主名称: | 史記〈孝景本紀第十一/〉 |
指定番号: | 218 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1955.06.22(昭和30.06.22) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 延久五年暮春大江家国書写加点奥書 |
員数: | 1巻 |
時代区分: | 平安 |
年代: | 1703 |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の作品。 |
史記〈巻第三、第四/〉
主名称: | 史記〈巻第三、第四/〉 |
指定番号: | 1019 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1927.04.25(昭和2.04.25) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 書跡・典籍 |
ト書: | 巻第三ニ建暦元年七月十五日ノ奥書アリ |
員数: | 2巻 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
史記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 16:43 UTC 版)
『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された歴史書である。二十四史の一つで、正史の第一に数えられる。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。
注釈
- ^ 「太史公自序」では、司馬氏はもともと周の史官であったとするが、実際には春秋時代以前の司馬氏の来歴については信頼できない。司馬遷の祖先のうち、最も早く史実である可能性が高いものは、紀元前4世紀末に少梁に居住した秦人であったという記録である(吉本1996、p.193)。
- ^ 現行の「孝武本紀」は司馬遷の手によるものではない。「太史公自序」によれば、司馬遷の手による「今上本紀」が存在していたことは分かるが、早くに亡佚している。現行の本紀は前漢の褚少孫が補作したものとも言われるが、内容が「封禅書」の大部分をそのまま採録したものであり、褚少孫の補作ですらないとする見解(清の銭大昕)もある。
- ^ 増田欣『『太平記』の比較文学的研究』p112-p125(角川書店、1976年)の算出方法による。また、『太平記』章段の事書は西源院本に基づく。なお、例えば楚漢の興亡が『平家物語』・『平治物語』・『源平盛衰記』で紹介されているように、種々の軍記物語が『史記』にみえる説話を用いている。しかし、『史記』のテキストとの比較により、これらの軍記物語と『史記』との直接的関連を否定するのが通説的見解のようである。増田・前掲書p207以降。『平家物語』につき、山下宏明ら編・軍記文学研究叢書5『平家物語の生成』p129(汲古書院、1997年)。
- ^ 川瀬一馬『足利學校の研究』p32(講談社、1974年)。もっとも、『史記』は足利学校で教材とされる唯一の史書であり続けた訳ではなく、享保13年(1728年)の蔵書目録には『両漢書』・『通鑑』などがみえる。同書p167・p253。なお、「三注」とは『古注蒙求』・『千字文注』・『胡曾詩註』をいう
出典
- ^ 川勝 1973, pp. 7–10.
- ^ 川勝 1973, pp. 31–33.
- ^ 川勝 1973, pp. 34–38.
- ^ 川勝 1973, p. 39.
- ^ 川勝 1973, pp. 39–41.
- ^ a b 青木 1984, p. 176.
- ^ 川勝 1973, p. 65.
- ^ 増井 1987, p. 9.
- ^ 川勝 1973, p. 41.
- ^ a b c 吉本 1996, p. 125.
- ^ 川勝 1973, pp. 46–47.
- ^ 吉本 1996, p. 140.
- ^ 吉本 1996, pp. 220–221.
- ^ 吉本 1996, pp. 159–160.
- ^ 吉本 1996, pp. 73–79.
- ^ 吉本 1996, pp. 184–185.
- ^ a b c d e 米田 & 永田 1983, p. 118.
- ^ 吉本 1996, pp. 186–187.
- ^ 吉本 1996, p. 187.
- ^ 増井 1987, pp. 19–10.
- ^ 内山 2003, pp. 17–18.
- ^ 青木 1984, pp. 176–177.
- ^ a b c d 宮崎 1979, pp. 18–19.
- ^ 水澤 1984, pp. 163–164.
- ^ 吉川 2010, pp. 15–16.
- ^ a b c 吉本 1996, p. 216.
- ^ a b 川勝 1973, pp. 28–29.
- ^ 吉本 1996, p. 220.
- ^ 川勝 1973, pp. 56.
- ^ 川勝 1973, pp. 58–59.
- ^ 宮崎 1979, p. 150.
- ^ a b 宮崎 1979, pp. 20–22.
- ^ a b 吉本 1996, p. 211.
- ^ a b c d 吉本 1996, p. 213.
- ^ 吉川 2010, pp. 10–11.
- ^ 吉川 2010, pp. 8–9.
- ^ 宮崎 1979, p. 191.
- ^ 史記列伝・解説
- ^ 岡田正之『近江奈良朝の漢文學』p26・p62(養徳社、1946年)。
- ^ 指定文化財|国宝|史記孝文本紀第十(宮城県)
- ^ 『日本国見在書目録』の撰述時期は、未確定だが、本項では大庭脩『古代中世における日中関係史の研究』p299(同朋舎出版、1996年)を参照。
- ^ 中西進・厳紹璗編『日中文化交流史叢書 第6巻・文学』p207(大修館書店、1995年)の算出方法による。
- ^ 福井保『紅葉山文庫』p39(郷学舎、1980年)。
史記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 07:54 UTC 版)
^ 《史記・巻四十三・趙世家第十三》:九年,趙攻燕,取貍、陽城。兵未罷,秦攻鄴,拔之。 ^ 《史記・巻七十三・白起王翦列傳第十三》:始皇十一年,翦將攻趙閼與,破之,拔九城。 ^ a b c d 《史記・巻六・秦始皇本紀第六》:十一年,王翦、桓齮、楊端和攻鄴,取九城。王翦攻閼與、轑陽,皆併為一軍。翦將十八日,軍歸斗食以下,什推二人從軍取鄴安陽,桓齮將。 ^ a b c 『史記』秦始皇本紀:「十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙將扈輒,斬首十萬。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。」 ^ 『史記』趙世家:「二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻赤麗、宜安...」 ^ 『史記』廉頗藺相如趙奢李牧列伝:「七年,秦破殺趙将扈輒于武遂,斬首十万。」 ^ a b 《史記 巻六 秦始皇本紀 第六》:十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其將軍。桓齮定平陽、武城。 ^ a b c 《史記 巻八十一 廉頗藺相如列傳》:後七年,秦破殺趙將扈輒於武遂,斬首十萬。趙乃以李牧為大將軍,撃秦軍於宜安,大破秦軍,走秦將桓齮。封李牧為武安君。 ^ 《史記 巻四十三 趙世家》:二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻 赤麗、宜安,李牧率師與戰肥下,卻之。封牧為武安君。 ^ a b 史記・秦始皇本紀:「十五年,大興兵,一軍至鄴,一軍至太原,取狼孟。地動。」 ^ a b 史記・趙世家第十三:「四年,秦攻番吾,李牧與之戰,卻之。」 ^ 史記・廉頗藺相如列伝第二十一 ^ a b 史記・秦始皇本紀:「十七年,内史騰攻韓,得韓王安,盡納其地,以其地為郡,命曰潁川。地動。華陽太后卒。民大饑。」 ^ a b 史記・韓本紀:「九年,秦虜王安,盡入其地,為潁川郡。韓遂亡。」
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史記
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「古代朝鮮半島関連の中国文献」の記事における「史記」の解説
箕子 朝鮮列伝朝鮮王満者故燕人也。(朝鮮王の衛満は昔の燕人である。)
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