蜀漢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/10 21:55 UTC 版)
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蜀漢(しょくかん/しょっかん、221年 - 263年)は、中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州、現在の四川省・湖北省一帯および雲南省の一部)に建てた国。
歴史上、蜀の地に割拠した王朝は多数あるが、王朝を指して「蜀」と言った場合、多くは蜀漢を指す。
概要
蜀は魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。巴蜀を領土とし、成都を都に定めた。
「蜀漢」は後世の称であり、正式な王朝名は「漢」である。これは魏の文帝・曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の皇室と同姓である劉備[注釈 1]が漢の正統を継ぐと宣したためである[1]。従って同時代に「蜀漢」を自ら名乗った訳ではない。漢の後継であることを認めない魏・呉の立場では当時から「蜀」と呼ばれた。
他の同時代の称としては、蜀漢の臣から季漢と呼ばれた例がある[2]。「季」は「末っ子」の意味であり、「漢の正統を最後に受け継いだもの」ということになる。
歴史
劉備の台頭
後漢末期、州牧設置を建言した劉焉が自ら名乗り出て益州に赴任し、現地の豪族の助力を得て地方政権を築く。194年、劉焉が死去し劉焉の四男・劉璋が後を継いで益州牧に就任するが、劉璋は暗愚だと評されていた。
207年頃、荊州牧・劉表の元に身を寄せていた劉備は諸葛亮を三顧の礼にて招き入れる。この時に荊州・益州を取って孫権と手を組み曹操を破るといういわゆる天下三分の計を説かれ、208年に孫権と共に赤壁の戦いで曹操を破り、209年に荊州南部の4郡を制圧した。
入蜀と漢中王即位
212年から214年にかけて、劉備は劉璋の配下の張松・法正・孟達らの手引きで、劉璋から領土を奪い、益州の大半を得た(入蜀)。左将軍府には長史に許靖、営司馬に龐羲、従事中郎に伊籍・射援、掾属に劉巴・楊儀・馬良・馬勲といった劉備の初期政権の中核となる人物が任命された。
215年、孫権と領土のことで係争になり、荊州南部の郡の東側を孫権に割譲した。
219年、劉備は漢中を守備している夏侯淵を討ち取り(定軍山の戦い)、曹操から漢中郡を奪って漢中王になった。劉備の配下の関羽は荊州方面から曹操領に侵攻したが、曹操と密かに同盟を結んだ孫権・呂蒙に荊州を攻撃され、荊州は失陥し、関羽は捕虜となり孫権に処刑された(樊城の戦い)。
蜀漢の建国
220年、曹丕が後漢を廃し、魏を建国すると、221年、劉備は対抗して漢の皇帝となった[1]。諸葛亮らに蜀の法律である蜀科を制定させ、法制度を充実させた。さらに劉巴の提案に従い、新しい貨幣を作り、貨幣制度を整備した。益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を計り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。
222年、荊州奪還と関羽の仇討ちのため呉を攻めるも、陸遜の前に大敗した(夷陵の戦い)。この際に蜀軍は馬良をはじめとした主だった将兵が戦死したため、多くの人材を失い、その軍事力は大いに衰えた。同年、劉備は孫権と和睦を結んだ。
223年、劉備は諸葛亮に後事を託して崩御。後に昭烈帝と諡された。劉備の亡き後は子の劉禅が後を継ぎ、諸葛亮が丞相として政務を執った。
その後、益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしたが、諸葛亮・李恢らは225年に益州南部四郡を征討して反乱を平定した(南征)。
諸葛亮の北伐
そして諸葛亮は魏に対しては、劉備の遺志を継ぎ北伐を敢行した。この北伐の出師にあたり、諸葛亮が劉禅に奏じた『出師の表』は、当時から現代に至るまで名文として非常に高く評価されている。228年、魏の天水・南安・安定の3郡を奪うが、先鋒の馬謖が軍令無視により街亭で張郃に敗北し(街亭の戦い)、天水・南安・安定の3郡は張郃らに奪い返された。諸葛亮は軍律を模範的に遵守せざるを得ない立場であったため、自身の愛弟子である馬謖を処刑した。これが有名な故事「泣いて馬謖を斬る」である。
同年冬の陳倉城攻撃は食料不足により撤退するも(陳倉の戦い)、229年には魏の武都・陰平の2郡を奪った。同年、呉の孫権が皇帝を称し、蜀漢では原則論として孫権の即位を認めるべきではないから同盟を破棄すべきとの意見が続出した。しかし諸葛亮は魏に対抗するために現時点での同盟破棄は妥当ではないと説得し、蜀漢と呉は改めて対等同盟を結んだ[注釈 2]。同時に、魏領の分配についても取り決めた[注釈 3]。
その後も祁山周辺において魏との攻防が続き、231年の祁山攻撃では再び食料不足で撤退したものの、追撃してきた張郃を射殺している(祁山の戦い)。しかし、諸葛亮に次ぐ地位にあった都護・驃騎将軍の李厳がこの戦いで兵站に問題を起こして失脚し、政治・軍事の重圧は諸葛亮に一層のしかかることになった。233年にはまたも益州南部で南西夷の劉冑が反乱を起こし、馬忠・張嶷らが反乱を平定している。234年には諸葛亮が五丈原において病に倒れ、陣中で死去した(五丈原の戦い)。
衰退と滅亡
諸葛亮の死後は、諸葛亮の北伐を支えたが協調性に難があった魏延・楊儀が粛清され、蔣琬を中心に費禕・董允・姜維・張翼と、漢中で魏との国境を守る呉懿・王平、江州で呉との国境を守る鄧芝が政務・軍政を担当し、大々的な北伐を控えて内政の充実に努めた。244年、魏の曹爽・夏侯玄・郭淮らが侵攻して来たが、王平・費禕らが撃退した(興勢の役)。魏ではこのころ司馬懿一族の専横によって政局が混乱しており、それを嫌った魏将・夏侯覇が蜀に投降した。
しかし246年に蔣琬・董允が相次いで死去し、253年の費禕の死後には、最早蜀を支える政治家はいなくなり、姜維や陳祗らが国政を執り、北伐が再開される。255年には魏に大勝したものの、256年の段谷の戦いでは逆に大敗し、相次ぐ北伐で蜀は疲弊した。258年に宦官の黄皓が政治権力を握り、黄皓を重用した劉禅の悪政により、宮中は乱れ国力は大いに衰退した。
そして263年、魏の実権を握っていた司馬昭が蜀討伐を命令する。姜維らは剣閣で魏軍に抵抗したが、対峙している間に別働隊が迂回して蜀の地へ進入、綿竹で呉の援軍が到着する前に諸葛瞻が討ち取られた。この知らせを聞いた劉禅は南方か呉への逃亡を図ろうとしたが、譙周に反対され魏軍が成都に迫る前に降伏。蜀は三国の中で最も早く滅亡した(蜀漢の滅亡)。劉禅の五男である劉諶と妻子が憤死し、その後の成都で起こった反乱で皇太子の劉璿が殺害されるなどの混乱はあったものの、劉禅自身は魏・西晋両朝で「安楽公」に封じられ、271年に65歳で亡くなるまで生きた。
陳寿によれば、蜀は歴史を編纂する役人(史官)を(ほとんどの期間)置いておらず、魏や呉に比べ蜀の歴史は後世にあまり伝わらなかったようである。
劉氏のその後
劉禅はその後、先祖代々の土地である幽州の安楽県で安楽公に封じられた。長男の劉璿は先年の戦乱で先立たれていたため、後継者を決めることになったが、次男の劉瑤を差し置いて、六男の劉恂を後継にしようとしたため、旧臣の文立らに諌められた。271年に65歳で死去した。西晋によって思公と諡された。
安楽公を継いだ劉恂は、道義を失う振る舞いを度々行い、旧臣の何攀らに諫言されたという。最後は永嘉の乱に巻き込まれ、劉恂も含めて一族皆殺しにされた。ただ、従孫の劉玄(弟・劉永の孫)だけが生き延びて、成漢を頼ったという[3]。
政治
劉備の入蜀から皇帝即位時
蜀漢は魏の正統性を否定してその討伐を大義名分としていたため、「軍事最優先型国家」と評価されるレベルの軍事重視型の国づくりを行っており、蜀漢の全人口が90万人から100万人なのに対し、兵士と官吏だけで14万人と人口の15%近くを占めると言う特異な構造となっていた[4]。また、河北の出身であった劉備は関羽・張飛らと共に各地を転々した上でようやく荊州の一部に勢力基盤を確保した存在に過ぎず、自己の勢力を維持するためにも積極的な軍備増強と勢力拡大に努めざるを得ず、諸葛亮が提案した俗に「天下三分の計」とも称される「隆中対」は劉備の正当性と現状に適った方針であった[5]。また、劉備が豊かな農業地帯であった益州の確保後に城内の金銀を将兵たちに分け与えてしまったのも、劉備の基盤の弱さゆえであり、そのために自己の政権作りと国内整備に必要な財源すらも放出してしまった(蜀書『先主伝』では穀物と布帛だけは回収したと伝えている)[6]。そのため、劉巴の献策で「直百銭」(1枚で五銖銭100枚相当)の貨幣を鋳造して強制的に市場に流して物資を買い集めることでしのぎ、一方で劉備に従った旧来の豪族・地主にはその土地所有を保証することでその経済的打撃を抑制することで反乱の発生を防いだ[7]。さらに王連という優れた財務官僚を登用して鉄と塩の専売制を機能させ、また絹織物の生産・貿易を管轄する「錦官」が設けられるなど、財政充実が図られた(ただし、これらの政策は民間経済への犠牲を伴うものでもあった)[8]。また、劉備の時代に既に諸葛亮は国政のトップである丞相だけでなく、行政実務のトップである録尚書事を兼ね、更に地方政治のトップであった益州刺史を兼務して軍事だけでなく行政・経済を完全に掌握していた[9]。なお、蜀漢では人事に関しては尚書台が管轄しており、更に戸籍についても管轄していた可能性があるという[10]。
諸葛亮丞相時
その後、劉備は漢中を得て漢中王から皇帝に即位したものの、荊州を喪失して夷陵の戦いで敗退するなど苦境の中で没し、新皇帝劉禅と丞相諸葛亮は劉備の体制を引き継ぐことになる。劉備の死と共に南中諸郡は反乱を起こし、諸葛亮は南征を計画するが王連から反対を受ける。諸葛亮の計画の背景の1つとして勢力の維持・拡大によって財政基盤の強化を図ろうとするものであったが、王連は自己の財政政策が機能している中で本来の目的である北伐を後回しにして南征を行うメリットは少ないとみたのである。しかし、王連が死去すると専売制は不振となり、結局南征が実施され、南中地域から兵力と物資を得ることになった。ただし、「隆中対」にも記された内治の充実は荊州を領有して初めて実現できるものであり、荊州を魏と呉に奪われた状況では民間経済を犠牲にして軍備を強化し一刻も早い北伐を目指すしかなく、諸葛亮の『出師の表』にも「益州疲弊せり」と記されている[11]。そのため、北伐においても漢中などにおける屯田や敵軍糧の略奪を行うことで、できるだけ魏の物資を減らしつつ蜀漢の物資を浪費しないようにする策が図られることになる[12][注釈 4]。しかし、度重なる北伐は蜀漢国内に対する度重なる臨時徴収の実施など、より一層の疲弊をもたらした。これに対して諸葛亮は、厳格な法治や思想統制、平時における軍隊の公共事業への使用などを行い、国内の不満を魏に向けさせる戦略を取り続けることで北伐と体制維持の両立を成功させていった[13]。諸葛亮伝の裴松之注・袁子の記述によると諸葛亮は役所・宿場・橋梁・道路の修築などのインフラ整備をよく行っており、また田畑の開墾も進めて米倉をいっぱいにし、武器の性能も向上させたとしている。そして法治強化の結果道端に酔っ払いがいなくなるなど治安の向上も見られ、死後何十年経っても諸葛亮の事を思慕するの念は続いたとしている[注釈 5]。
諸葛亮死後
諸葛亮の死後、蜀漢の体制は一時的に動揺したが、後継者である蔣琬は丞相には就かなかったものの、大将軍・録尚書事・益州刺史を兼務して諸葛亮の地位をほぼそのまま継承した。また蔣琬は都督・軍師・監軍・領軍・護軍・典軍・参軍に軍の中枢となる人物を配置し、軍の安定を図った。蔣琬は諸葛亮が死去すると尚書令となり、すぐに行都護の位を加えられた。同時に鄧芝が前軍師、楊儀が中軍師、費禕が後軍師、姜維は右監軍、張翼は前領軍、王平は後典軍となり、車騎将軍となった呉懿とともに漢中の軍および成都の政権を落ち着かせる役を担った[14]。蔣琬の死後にその後を継いだ費禕も同様であったが、これは諸葛亮の存命中に蔣琬は撫軍将軍・尚書郎、費禕は中護軍・尚書令と、いずれも軍事系と尚書系の職務を両方経験していたため、軍事・行政・経済を一元的に運営する諸葛亮の政治手法を理解していたから可能であったとみられている[15]。しかし、費禕の没後にその地位を継承すべき姜維は、録尚書事に就いたものの行政実務に関与しておらず、もう1人の陳祗は鎮軍将軍に就いたものの軍務には関与していなかったため、諸葛亮の政治手法は取れなくなっていった。大将軍として軍事を掌握する姜維と尚書令として行政実務を掌握する陳祇は、対立する立場にありながらも北伐の実現に向けて対立よりも協調する路線を取り続けた。しかし、姜維の北伐の失敗と陳祇の死去、彼に登用された宦官の黄皓の台頭によって、姜維は軍事面では張翼・閻宇、尚書側からは諸葛瞻・董厥・樊建、そして宦官の黄皓の3方向の反対派からの突き上げを受けることになった。人事を扱う尚書に足場を持たない姜維は、成都に帰還すれば尚書内の反対派によって確実に罷免されるため、成都へ帰還することができなくなってしまった。しかし、反対派も互いに対立関係にあり、蜀漢末期の宮廷は4派に分裂の様相を見せていた[16]。それでも鄧艾・鍾会の蜀侵攻に際しては、張翼・諸葛瞻・董厥らは姜維と共にこれを迎撃しており、知略で成都を陥落させた鄧艾を除けば魏軍を撤退間際まで追い込んでいたなど、激しい権力闘争があったにもかかわらず国内における致命的な分裂は最後まで生じなかった[17]。
- 丞相: 諸葛亮 →丞相、司徒の地位に就いた者については「三国相国、丞相、司徒の一覧」を参照
- 司徒: 許靖
- 太尉: ?(穆皇后伝にて太尉に付いた人物がいたことに言及がある)[注釈 6]
- 録尚書事: 諸葛亮、蔣琬、費禕、姜維
- 尚書令: 法正、劉巴、李厳、陳震、蔣琬、費禕、董允、呂乂、陳祗、董厥、樊建、諸葛瞻
- 平尚書事: 馬忠、諸葛瞻、董厥
- 尚書僕射: 李福、姚伷、董厥、諸葛瞻、張紹
- 尚書: 楊儀、劉巴、鄧芝、陳震、呂乂、馬斉、張遵、向充、胡博、張翼、宗預、劉式、許游、衛継、文立
- 丞相長史(署諸曹事): 王連、向朗、楊儀
- 留府長史(丞相領兵出則統留事): 張裔、蔣琬、馬忠
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諸葛亮
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蔣琬
-
姜維
軍事
魏を中心に発展した中央の中軍、州や特定地域を任された都督の率いる地方軍という制度の一部は蜀にも取り入れられた。しかし、複数の州を保有する魏や呉と違って、益州一州のみの蜀漢では都督の管轄する地域は限定的である。蜀を構成する漢中・巴・蜀・南中の4つのブロックが最大の軍管区であり、漢中には魏への防御と北伐の中心となる漢中都督、巴には北伐軍や永安守備軍と成都の間の中継点であり、その兵站を支える江州都督、呉に備える永安都督、南中を支配する庲降都督がいた。そのほかにさらに小規模で特定の場所を守備する都督・督軍・督がいた。
また蜀漢に特有の官職として「都護、軍師、監軍、領軍、護軍、典軍、参軍」というものがある[18]。同様の官職は魏にもみられるが、蜀の場合には序列として軍号に優先するものであるという特徴で知られている。この官職と丞相府の地位(長史・司馬)、拠点の督・都督や大規模出征時の前左右後の部督といった地位の組み合わせで序列が決まる。李厳を罷免する上表が、この序列に従って名を連ねていることで知られている[19]。
諸葛亮が没した後、丞相の地位についた者はおらず、蔣琬や費禕は大将軍・録尚書事として政治と軍事を掌握した。ひとつには諸葛亮と同格の地位を避けたということが考えられる。また、漢の復興を掲げ、魏を滅ぼすことが国家の命題であり、首都の成都と政権首座の大将軍が漢中から政務を行う二元政治であって蜀漢にとっては、軍事組織を中心にした政権のほうが運営しやすいという側面があったと言える。
蜀漢と正統論争
蜀漢は三国のうちで最も国力の劣る国家であったが、後世に起こった正統論争(正閏論)においてはその存在が大きく注目された。
三つの王朝が鼎立した三国時代であるが、陳寿は『三国志』の中で曹操や曹丕ら曹氏のみを皇帝として認め、同時に皇帝を称した劉備・孫権らは列伝に収録して形式上は彼らを魏の臣下として扱うなど、三国の内で魏のみを正式な王朝として扱った。ただ一方では「春秋の筆法」で以て蜀漢・呉もまた独立した王朝としての体裁を持っていたことを記し、その上で故国である蜀漢を呉とも差別し、その正統性を窺わせる記述も密かに盛り込んでいた。
東晋の時代、晋王朝は中原を非漢民族王朝に支配され、江南に逃れざるを得ない状況にあった。また、東晋は弱体で、桓温・桓玄父子や劉裕によって禅譲が狙われる状況にあった(最終的には劉裕が宋を開き滅亡)。そこで禅譲を否定するため、晋は魏からの禅譲によってではなく、後漢を継ぐ蜀漢を倒して初めて成立したのだという主張が生まれた。魏の正統性を否定した結果、蜀漢を正式な王朝と見なす、いわゆる蜀漢正統論の起こりとなった。習鑿歯の『漢晋春秋』や袁宏の『後漢紀』はそのような歴史観の影響を受けて成立した史料である。『漢晋春秋』の蜀漢正統論に対する解釈として、『四庫提要』は中原を曹魏に追われて巴蜀にのがれた蜀漢に東晋の現況を重ね合わせたことによるとしている。また中村圭爾は、魏の正統性を否定することで魏から晋への禅譲の際に起きた事件における司馬氏の行為を正当化する意図があったとする(例えば、高貴郷公殺害は皇帝弑虐ではなく、蜀漢=正統に反する僭主殺害として扱われる)[20]。
なお非漢民族王朝では、匈奴の劉淵が自らを漢王朝の後継者に位置づけ、同時に劉禅に諡号を追贈し劉備を劉邦・劉秀と共に祀るなど、やはり蜀漢を漢の後継であると見なしていた。
北宋に成立した司馬光『資治通鑑』はそれまでの正史類を総攬する大書であるが、この中で魏・蜀漢・呉はいずれも正統な王朝と認められていない。司馬光は統一王朝のみを正統として扱っているからである。しかしその紀年には便宜上魏の元号を用いており、消極的ではあるが魏の正統を認める立場にあった。ところが南宋の時代になると、再び蜀漢正統論は脚光を浴びる。女真族の金によって南宋王朝が東晋同様に江南に追いやられてしまったからである。そんな中で朱熹は『通鑑綱目』を編し、蜀漢の正統性を宣揚した。また南宋の蕭常や元の郝経などは『続後漢書』と称する、『三国志』を蜀漢正統論に基づいて再編集した史書を著した。これらはいずれも蜀漢を本紀に立て、曹操らは載記や列伝へと追いやっている。
元末明初に成立した小説『三国志演義』においては、『通鑑綱目』の思想・歴史観が大きく作用したため、蜀漢が正統な存在として物語上も明確に位置付けられている。清初に『三国志演義』を改編した毛宗崗もそれを継承し、蜀漢を正統とした上で魏・呉を僭国であると断じている。ここに劉備を善玉、曹操を悪玉とする三国志観は確立したと言える。
歴代皇帝
諡号 | (通称) | 姓名 | 在位 | 元号 |
---|---|---|---|---|
昭烈帝 | 先主 | 劉備 | 221年 - 223年 | 章武 221年-223年 |
懐帝 | 後主 | 劉禅 | 223年 - 263年 | 建興 223年-237年 |
先主・後主という呼び名は、『三国志』が魏を正統とする立場に立脚しているため、蜀漢の皇帝を「帝」と称することを避けたためのものである。書名の「先主伝」「後主伝」のみならず本文中でも「先主」「後主」と記され、「帝」ではないものの実名で呼ばれていないのは、呉の皇帝が書名では「呉主伝」としながらも本文では「孫権」のように呼び捨て扱いであることと比べて差別化が行われている。これは『三国志』を著した陳寿が蜀の出身ゆえの故国称揚であると考えられている。
-
昭烈帝(劉備)
-
懐帝(劉禅)
脚注
注釈
- ^ 『三国志』蜀志「先主伝」では中山靖王劉勝の後裔と、『典略』では斉武王劉縯の後裔とするなどの諸説がある。
- ^ なお陳寿の蜀志「後主伝」では、呉の皇帝は一貫して「王」と表記している。
- ^ 并州、涼州、冀州、兗州は蜀漢が、徐州、豫州、幽州、青州は呉が支配するものとし、司隷は函谷関を境界線として、西は蜀漢、東は呉が占める取り決めをかわした。
- ^ 一方で敵地の民衆に乱暴を働かず平和的に対応していたため、そのやり方を裴松之や袁子に評価されている。(諸葛亮伝及び陸遜伝より)
- ^ 襄陽紀によると死後すぐに民衆により諸葛亮を祀りたいと願い出ていたが許可が下りず、民間で無許可で祭祀が行われ、蜀末期になってようやく許可が下りて霊廟が作られることになった。
- ^ 唐代の書物である『元和姓纂』及び『新唐書』にて、蜀の太尉として上官勝という人物が挙げられている。
出典
- ^ a b 『三国志』蜀志二「先主伝」
- ^ 『三国志』蜀志十五「楊戯伝」にある『季漢輔臣賛』より。
- ^ 『三国志』蜀志四「劉璿伝」裴松之注、孫盛『蜀世譜』。
- ^ 柿沼、2018年、P176・189-194.
- ^ 柿沼、2018年、P178-179.
- ^ 柿沼、2018年、P180-181.
- ^ 柿沼、2018年、P184-186.
- ^ 柿沼、2018年、P187-188.
- ^ 柿沼、2018年、P201-202.
- ^ 柿沼、2018年、P225-226.注(82)・(85)
- ^ 柿沼、2018年、P187-189.
- ^ 柿沼、2018年、P193-198.
- ^ 柿沼、2018年、P198-203.
- ^ 『華陽国志』七巻
- ^ 柿沼、2018年、P203-204.
- ^ 柿沼、2018年、P205-208.
- ^ 柿沼、2018年、P208.
- ^ 『諸葛亮・北伐軍団の組織と編成について』、石井仁、1990
- ^ 『三国志』蜀志十「李厳伝」裴松之注、諸葛亮『公文上尚書』。
- ^ 中村圭爾「魏蜀正閏論の一側面」『六朝政治社会史研究』(汲古書院、2013年)P441-459
関連文献
- 「正史 三国志」(陳寿、裴松之 注、井波律子・今鷹真・小南一郎 訳、ちくま学芸文庫全8巻)、※蜀書は第5巻
- 柿沼陽平「蜀漢的軍事優先型経済体系」(初出:『史学月刊』2012年第9期(中国・河南大学)/改題所収:柿沼「蜀漢の軍事優先型経済体制」『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P175-229.
外部リンク
校刻 三国志 巻31-38国立国会図書館デジタルライブラリー ※明治時代に出版された訓読文である
蜀漢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:00 UTC 版)
「三国志 (北方謙三)」の記事における「蜀漢」の解説
劉備(りゅうび) 漢の中山靖王の裔。漢王朝を建て直すことで、尊き不可侵の血統として「国家秩序の象徴」とする志を抱き、義弟関羽、張飛と共に乱世に身を投じる。用兵に巧みで、男の約束は貫徹する好漢。穏やかな物腰で徳の将軍と称えられてはいるが、内には激情を秘め、ときに苛烈な行動に出る過激さを併せ持つ。史実同様、大きな耳の偉丈夫として描写されている。 関羽(かんう) 劉備の義弟。天下に鳴り響く豪傑であり、篤実で武人の誇りを持つ男。部下の不正を許さず、荊州で善政を敷く。自分の元で部将が育たないことを密かに悩んでいた。 張飛(ちょうひ) 劉備の義弟。実直で心優しい豪傑であるが、劉備の「徳の将軍」という声望に傷をつけないよう、酒乱の乱暴者というイメージを表に出し、進んで泥をかぶる役を演じる。後に蜀漢軍の伝統となる厳しい調練(死者も出る)の基礎を築く。呂布の黒騎馬隊を手本とした張飛の騎馬隊は、劉備軍では最強を誇る。内に秘めた優しさ故に、義兄関羽の戦死、そして愛妻董香を喪うという相次ぐ衝撃によって生じた心の隙を、呉の謀臣張昭に衝かれ暗殺される。張飛の野戦料理は、蜀漢軍の伝説となる。 董香(とうこう) 本作独自の人物。劉表領西城守将、董陵の娘で張飛の妻。男勝りで長身、秀でた眉に強い眼光の持ち主。故郷の新野では「じゃじゃ馬」として鳴らしており、剣の腕は並の兵では敵わないほどに立つ。劉備が劉表の客将として新野に駐屯していた時期、張飛が西城へ援軍として行った時、馬(張飛の愛馬となる招揺)を借りたことをきっかけに張飛に見初められる。結婚して以降は張飛を内から支え続ける。呉により拉致されそうになった際、抵抗し奮戦したものの息子の張苞と共に戦死した。 王安(おうあん) 本作独自の人物。張飛の従者。徐州で張飛に拾われた。兵役不適格な小柄の少年だが、張飛夫婦に仕えていくうちに一人の男として武人として成長していく。長坂の戦いでは、董香、趙雲らとともに劉備の妻子の護衛に付き奮戦するが、戦闘中に受けた脇腹の傷により長坂橋を超えたところで力尽きる。張飛、董香夫妻の手によりその場に埋葬された。 趙雲(ちょううん) 常山真定出身の偉丈夫。公孫瓚の部将だった時に、単身で敵からの攻撃を防ぐなど一目おかれる活躍をしその後劉備に惚れ込み仕官を直訴。このときは劉備は自身も内心では登用したいとは思ったものの自分の信念から一年間世間を知り様々な人を見てそれでも自分を気に入ったのなら、また士官しに来いとを諭され、天下行脚の旅に出る。(劉備は内面では他のところに行ってしまうのではないかと心配していたのを漏らした)それでもやはり、帰還後は劉備に仕えさらに劉備軍の重鎮となり、この旅で得た人脈が後々劉備に利することになった。その武勇は張飛 関羽にもまさるとも劣らずと評され、その武勇で様々な将軍を怯えさせた。さらにその人の良さからも周りに好かれた。史実では諸葛亮と親交が深いが、今作ではそのような面はあまり見受けられない。趙雲率いる騎馬隊の素早さから老齢になっても、第一線で活躍をする。作品後半の夷陵の戦いでは、劉備に反対するものの、ギリギリのところ助けに入るなど、作品を通じて義の武将である。 応累(おうるい) 本作独自の人物。蜀の間諜の元締め。劉備の「将来の国の在り方」の志に共感し行動を共にする。年齢不詳で人畜無害そうな小太りの容貌。その後も二人の息子、応真(おうしん)・応尚(おうしょう)も父の間諜部隊を受け継ぎ蜀に仕える。張飛の妻董香が呉に拉致されそうになった際、董香親子を守るべく奮戦の末、死亡する。 諸葛亮(しょかつりょう) 「臥龍」と称される軍師。曹操の手に落ちそうな天下に尻込みし、隆中で生まれた時代が遅いと独りごちていたところ、劉備に請われ、その志に共感し出仕する。そのひらめきから生み出される戦略・作戦は完璧かつ大胆だが、人の心の機微を見る目に欠けており、それがゆえの躓きを幾度も味わう。優れた文官、発明家でもあり携帯可能な小型連弩等の兵器や木牛を開発する。剣の腕も確かであり、劉備軍に合流後の最初の戦いでは趙雲と共に馬を並べて最前線に出たこともある。また、漢中防衛戦では圧倒的多数の曹操軍を前にして己を見失いそうになり劉備に窘められるといったこともあった。 糜竺(びじく) もとは徐州牧陶謙の臣。劉備が徐州に援軍に行った際、一族で劉備に臣従した(妹の燐は劉備の側室)。内政にたけた優秀な文官であり、序盤は劉備軍の参謀として、中盤から後半にかけては駐屯地や占領地の内政基盤を整えるなど目立たないが重要な役割を行った。重要な話をするときには膝が揺れ、さらに緊張すると揺れがとまる、という癖をもつ。弟糜芳の裏切りにより諸葛亮の策戦が崩壊し、荊州の陥落、守将関羽が戦死するという事態が発生すると、怒りと自責の念で憤死してしまう。 陳礼(ちんれい) 本作独自の人物。隆中で逼塞していた諸葛亮に、毎日昼食を届けていた少年。のち諸葛亮について蜀に仕え、張飛の副官となる。張飛の元で鍛えられたこともあり指揮官としても卓越している。張飛の死後、張飛軍を率いて呉軍を追い詰めるが陸遜の謀にかかり戦死する。この夷陵の戦いでは蜀の「人情」を象徴するキーマンとなる。 陳倫(ちんりん) 本作独自の人物。諸葛亮の妻。陳礼とは親戚。 龐統(ほうとう) 「鳳雛」と称される軍師。天才的なひらめきの諸葛亮と対比的に、何事も考えに考え抜いて結論を導く性質。自らの実戦経験のなさを卑下しがちである。成都を陥落させた後は、荊州を預かる関羽の軍師になる予定であったが、攻略戦の最中に流れ矢に当たり戦死。この不慮の死が荊州失陥と関羽の戦死の遠因となる。 徐庶(じょしょ) 流浪の旅人。友人である伊籍に会うため立ち寄った新野城に駐屯していた劉備に、戦略の重要性を説く。志に殉じるよりも自らの人生を大切にする性分であり、のち魏国内に住む母親のもとへと去る。魏に移った後は、才能を意図的に発揮せず、下級官吏として穏やかな生活を送る。 魏延(ぎえん) 荊州長沙太守韓玄の部将。荊州攻略戦の際に韓玄の首を手土産に劉備軍に投降、以降軍内の重鎮として活躍する。その投降の経緯、細かい所作を諸葛亮にしばしば生理的に嫌悪される。 黄忠(こうちゅう) 荊州長沙太守韓玄の部将で弓の名手。劉備軍に投降した後は益州攻略戦や定軍山の戦い等で活躍する。韓玄が討ち取られた後も劉表への忠節を貫き、投降を拒否する忠義の士。 馬良(ばりょう) 劉備軍の幕僚。諸葛亮とのコンビで蜀の民政整備に多大な貢献を果たす。確かな戦略眼も持ち合わせているが、実戦経験に乏しい。 馬謖(ばしょく) 馬良の弟。用兵に天才的な素質を持ち、同年代の部将と較べても抜きん出ている存在として将来を嘱望されるが、その素質ゆえに挫折を知らないことがのちの災いを招くことになる。自分の能力以上のことを行おうとする悪癖があり、劉備はその点に危惧を抱き、臨終の際、諸葛亮に重用しないように警告した。 姜維(きょうい) 魏の校尉だったが、蜀の「志」に共感し投降。以降蜀の若手部将の筆頭として活躍。 王平(おうへい) 忠勇にして謹厳実直な部将。史実通り文盲である。 李厳(りげん) 元劉璋軍の部将。第四次北伐の際に兵站を統括し、諸葛亮の厳命に対して自らの信じる正義を貫いた。 孟達(もうたつ) 新城郡太守。時勢を読む力に長ける変節漢。蜀魏の対立の中、戦略的に重要な位置を占めていく。
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