道統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/24 00:51 UTC 版)
道統(どうとう)は、儒教において上古以来、儒教の道を伝えた「聖賢」の正統。宋代の儒学者によって唱えられた[1][2]。朱子学の術語としては、孟子以後仏教や道教などの「異端」が栄え「道統」は廃れたが、周敦頤・程顥・程頤らがこれを復活。さらにそれを朱熹が引き継いだとし、朱子学が儒学の正統であると主張する根拠としている。考え方の萌芽は唐の韓愈の『原道』にすでにみえるが、教義的で史実とは判断しがたい[3]。
概要
堯以是傳之舜、舜以是傳之禹、禹以是傳之湯、湯以是傳之文武周公、文武周公傳之孔子、孔子傳之孟軻。軻之死、不得其傳焉。荀與揚也、擇焉而不精、語焉而不詳。 — 『原道』
と記している。また、『送王秀才序』には
子思之學、蓋出曾子。自孔子沒、群弟子莫不有書、獨孟軻氏之傳得其宗。 — 『送王秀才序』
とある。韓愈によれば、「道」は堯-舜-禹-湯王-文王・武王・周公-孔子-孟軻(孟子)と伝えられ、孟軻の死後は後継がなく、確かに荀子と揚雄が出たが、彼らは正しい『道』を選び取ることができず、儒教を語るも詳細に欠いたと批判する。また、子思(孔子の孫)の学問は曾子(孔子の弟子)から引き継がれ、さらにそれを引き継いだのが孟子であるという。この「孔子-曾子-子思-孟子」という道の伝授の確定は、そのまま「四書」の表彰に繋がる[3]。朱熹『孟子集注』孟子序説には『原道』が引用され、加えて二程の評価を引用している[注 1]。二程は、韓愈が道統に孟子を含み入れたことは前人を踏襲したものではなく、自分勝手のものでもなく、おそらく根拠を有するものであろうと判断している。
宋代に入ると、孔孟の道を継承しそれを宣揚しようという道学の意識をもって問題にされる[3]。南宋の朱熹は、『論語』は孔子、『大学』は曾子、『中庸』は子思、『孟子』は孟子のそれぞれの思想を伝える重要な書物とみなした。これが「四書」であるが、朱熹は「孔子-曾子-子思-孟子」と受け継がれた学問の系譜を「道統」と呼んだ。さらに朱熹は孟子以降断絶していた系譜が北宋の四先生(周敦頤・程顥・程頤・張載)によって復活され、この系統を朱熹自身が継承したと主張した[4]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 小川環樹,西田太一郎,赤塚忠,阿辻哲次,釜谷武志,木津祐子、2017、『角川 新字源 改訂新版』、KADOKAWA ISBN 978-4-04-621966-4
- 佐藤進,濱口富士雄、2017、『全訳 漢辞海 第四版』、三省堂 ISBN 978-4-385-14048-3
- 湯浅邦弘、2018、『教養としての 中国古典』、ミネルヴァ書房 ISBN 462308275X
道統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 05:40 UTC 版)
2018年3月9日時点において、鹿島神流の道統は次のようなものとなっている。 宗家師範家初代 國井源八郎景継 松本備前守紀政元 二代 國井源五郎源景清 上泉伊勢守藤原秀綱 三代 國井弥太郎源政輝 奥山休賀斎平公重 四代 國井弥五郎源義時 小笠原源信斎源長治 五代 國井弥司郎源善政 神谷伝心斎平真光 六代 國井弥八郎源政家 高橋直翁斎源重治 七代 國井小五郎源政氏 山田一風斎源光徳 八代 國井新五郎源氏家 長沼四郎左衛門藤原国郷 九代 國井善八郎源隆政 長沼四郎左衛門藤原徳郷 十代 國井新八郎源義継 本岡忠八藤原因質 十一代 國井源太郎源義利 小野清右衛門平成誠 十二代 國井大善源栗山 十三代 國井善太郎源栗山 十四代 國井善太夫 十五代 國井善五郎 十六代 國井新作 十七代 國井英三 十八代 國井善弥源道之 十九代 國井正勝 關文威
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