蜀漢の滅亡と姜維の最期
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263年、姜維は魏の侵攻が近いと見て、劉禅に張翼・廖化を増援に派遣するよう上表した。しかし黄皓は鬼神や巫女の神託を信じ、敵が来ないと考えていたため、劉禅にこの事を採り上げないよう意見した。そのため、群臣は姜維の上表を知らされなかった。 果たして同年5月、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾・鍾会が侵攻して来たため、ようやく劉禅は援軍を派遣した。一方の姜維は剣閣で鍾会軍に抵抗した。しかし姜維と鍾会が対峙している間に、鄧艾が陰平から迂回して成都盆地に進入し、綿竹で諸葛瞻を討ち取った。この知らせを聞いた劉禅は最早抵抗すらできず、鄧艾に成都を攻められる前に降伏した。劉禅降伏の報を受けた姜維は、残念に思いながらも鍾会に降伏した(蜀漢の滅亡)。将士らは皆怒り、剣で石を斬ったという。鍾会に「なぜ降伏が遅れたのか」と詰られたが、「これでも早すぎたのだ」と答え、鍾会はこの返答を非常に立派だとした。 降伏後の姜維は、鍾会が魏に反逆する意図を抱いている事を見抜き、鍾会に接近して反逆するよう提案した。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ、機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようというものであった。鍾会は姜維の進言に従い、遠征に従軍した将軍らを幽閉し反乱を準備した。だが将軍らが命の危機を感じて暴動を起こしたため計画が失敗し、姜維は鍾会および妻子らと共に殺された。享年63。 『三国志』蜀書姜維伝の注に引く『世語』によれば、魏兵が彼の遺体を斬り刻んで胆を取り出したとき、その胆は一升枡ほどもある巨大なものであったと記述されている。 西魏のときに宇文泰によって開明王と追贈された。 かつて剣閣県剣門関鎮に墓所があり、墓碑・墓廟などがあったが、1936年に川陝公路(現在のG108国道)の整備のため取り壊された。唯一残っていた墓亭も、1960年代に文化大革命で破壊され、現在は跡形もない。 甘粛省南東部の天水市甘谷県には姜維の墓所があり、彼を祀る「姜公祠」が存在し、祠には姜維を描いた壁画、像などがある。また四川省広元市剣閣県の剣門関近くに『漢大将軍姜維之墓』が存在する。
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