蜀漢の滅亡と姜維の最期とは? わかりやすく解説

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蜀漢の滅亡と姜維の最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 21:54 UTC 版)

姜維」の記事における「蜀漢の滅亡と姜維の最期」の解説

263年姜維は魏の侵攻が近いと見て劉禅張翼廖化増援派遣するよう上表した。しかし黄皓鬼神巫女神託信じ、敵が来ないと考えていたため、劉禅にこの事を採り上げないよう意見した。そのため、群臣姜維の上表を知らされなかった。 果たし同年5月、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾鍾会侵攻して来たため、ようやく劉禅援軍派遣した一方姜維は剣閣で鍾会軍に抵抗した。しかし姜維鍾会対峙している間に、鄧艾陰平から迂回して成都盆地進入し綿竹諸葛瞻討ち取った。この知らせ聞いた劉禅最早抵抗すらできず、鄧艾成都攻められる前に降伏した劉禅降伏の報を受けた姜維は、残念に思いながらも鍾会降伏した蜀漢の滅亡)。将士らは皆怒り、剣で石を斬ったという。鍾会に「なぜ降伏遅れたのか」と詰られたが、「これでも早すぎたのだ」と答え鍾会はこの返答を非常に立派だとした。 降伏後姜維は、鍾会魏に反逆する意図抱いている事を見抜き鍾会接近して反逆するよう提案した。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ、機会見て鍾会と魏の将兵殺害し劉禅迎え入れて蜀を復興させようというものであった鍾会姜維進言従い遠征従軍した将軍らを幽閉し反乱準備した。だが将軍らが命の危機感じて暴動起こしたため計画失敗し姜維鍾会および妻子と共に殺された。享年63『三国志』蜀書姜維伝の注に引く『世語』によれば、魏兵が彼の遺体を斬り刻んで胆を取り出したとき、その胆は一升枡ほどもある巨大なものであった記述されている。 西魏のときに宇文泰によって開明王と追贈された。 かつて剣閣県剣門関鎮に墓所があり、墓碑墓廟などがあったが、1936年に川陝公路現在のG108国道)の整備のため取り壊された。唯一残っていた墓亭も、1960年代文化大革命破壊され、現在は跡形もない甘粛省南東部天水市甘谷県には姜維墓所があり、彼を祀る「姜公祠」が存在し、祠には姜維描いた壁画、像などがある。また四川省広元市剣閣県の剣門関近くに『漢大将軍姜維之墓』が存在する

※この「蜀漢の滅亡と姜維の最期」の解説は、「姜維」の解説の一部です。
「蜀漢の滅亡と姜維の最期」を含む「姜維」の記事については、「姜維」の概要を参照ください。

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