蜀漢侵攻前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:15 UTC 版)
幼い時から賢く早熟で、教育熱心な母親の影響もあり、若い頃から勉学に励んだ。鍾会の母親は謹厳な性格であり、また勉強熱心かつ教育熱心で、鍾会に4歳で『孝経』を教え、その後も『論語』『詩経』『尚書』『春秋左氏伝』『易』などの様々な書物を鍾会に教え暗唱させた。鍾会の母親は鍾会を15歳で太学に入学させ、自分ひとりで勉強するように説いた。蔣済は、5歳の時の鍾会を「並外れた人間」と高く評価している。鍾会は草書・隷書に巧みで、他人の筆跡を真似る事も得意であったという。また、文章も巧く論文を多数書いている。 20歳で朝廷に出仕した。父が曹操・曹丕時代の元老であった事もあり、才略・技能に優れ、博学で勉強熱心だったので、若くして重用される事となった。正始年間(西暦240〜249年)、曹芳時代に秘書郎に任ぜられ尚書中書侍郎に昇進し、曹髦時代になると関内侯の爵位が与えられている。司馬師・司馬昭に重用され、毌丘倹・文欽・諸葛誕の乱の鎮圧に参謀として参加した。 諸葛誕の乱時は、参謀として軍事を取り仕切り、諸葛誕の救援に来ていた呉の全懌らを策略で魏に帰順させ、勝利に貢献した。当時の人々は鍾会を子房(張良)のようだと言った。その後、司隷校尉に昇進した。中央官庁から離れても、当時の政治上の変更や賞罰を全て取り仕切ったという。 鍾会は人物眼にも優れており、司馬昭に王戎など才覚ある名臣を多く紹介しているが、讒言で人を追い落とす事も多かった。嵆康らが処刑されたのも、鍾会の計略によるものである。 鍾会は功績を誇る節があり、「野心がその器量より大きい。慎み深くしないといけない」と友人の傅嘏に窘められた。 司馬昭の夫人王元姫は、夫に常々「鍾士季は利に目を向けて義を忘れ、何でも自分でやりたがる人です。恩寵が過ぎれば、必ずや見境をなくします。大任を与えてはなりません」と言っていたという。 また、辛憲英は鍾会の野心を見抜いていたとされ、甥の羊祜に「鍾会は勝手に物事を判断するので、いつまでも人に仕えているような人ではないでしょう」と言い、羊祜を慌てさせたという。
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