蜀漢攻略と鍾会の乱
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「蜀漢の滅亡#鍾会の乱」も参照 司馬昭は鍾会とともに、蜀の国力が衰えたので制圧できると考え、蜀漢の地形を調査し状勢を検分していた。262年、鍾会は鎮西将軍・仮節・都督関中諸軍事に任命された。 263年、司馬昭の命で鄧艾らと共に蜀征伐に出陣した。鍾会は胡烈らを先鋒とし関城(陽安関)を降した。鍾会は田章らに剣閣の西を通り江油へ出る道を取らせ、田章は江油の手前で蜀軍の伏兵三部隊を撃破した。その後、田章は鄧艾の指揮下に入り、先鋒に命じられた。鄧艾が綿竹で諸葛瞻らを討ち取ると、劉禅は鄧艾に降伏した。劉禅が降伏した後、鍾会は魏兵らに略奪を許さず、蜀の官僚達と友好的に接し、姜維と親交を深めた。鍾会は蜀漢征伐の功績により司徒に任じられ、爵位も県侯に昇進し、一万戸を加増された。 一方でこの蜀漢征伐時に、桟道が崩れた事を理由に許儀を処刑し、さらに諸葛緒が怯んで前進しないと密告し、諸葛緒の兵権を取り上げ配下の兵を自分のものにしている。また諸葛亮の墓の祭祀を行なわせている。 『三国志』魏書鍾会伝の注に引く『世語』および『漢晋春秋』によれば、蜀漢に亡命していた夏侯覇は鍾会の才能を高く評価しており、「鍾会は蜀漢・呉にとって心配な事態を招くかもしれません」と語ったという。 鄧艾が独断専横し勝手な処置をしたので、鍾会は胡烈・師纂らとともに鄧艾を告発した。その結果、鄧艾は兵権を剥奪され逮捕された。これによって自立の野心を抱いていた鍾会は、大軍勢を1人で統率するようになったので、姜維と手を結んで魏に反逆しようとした。鍾会はあわ良くば司馬昭に取って代わり、失敗しても(蜀漢を築いた)劉備くらいにはなれると計算した。264年正月15日、成都で護軍・郡太守・牙門将・騎督以上の者を宴に招待し、監禁した。しかし胡烈の計略により、胡烈の子の胡淵ら将兵が反逆したため、鍾会は殺された。この時40歳であった。同行していた兄の子も斬られた。なお、鍾会は遠征に息子ではなく甥たちを同行させている。というのも、彼は蜀漢討伐の少し前の時点に独り身であったという記述があり、実の子に関する具体的な記述がないことから、生涯独身だったとする意見がある。 蜀漢討伐前に、邵悌は司馬昭に対し「鍾会に10数万の軍を与えるのは危険です」と言った。司馬昭は「蜀漢討伐に勝機を見出している人は少ないが、鍾会は蜀漢討伐に勝機を見出している。だから鍾会に蜀漢討伐をさせるのだ。それに、もし鍾会が裏切ったとしても鍾会は上手くできないだろう。敗軍(蜀漢軍)の将兵は意気消沈し、遠征軍(魏軍)の将兵は魏に帰りたいから同調しないだろう」と答えた。 鍾会の遺体は向雄に引き取られ、埋葬された。司馬昭は「かつて王経が死んだ時、私は貴卿が東市で哭泣したことを咎めなかった。しかしこの度は鍾会が自らの意志で叛逆したというのに、なぜ貴卿は葬儀を行ったのか。このようなことを許していたら法はどうなるのだ」と向雄を叱った。しかし、向雄は「先王は朽ちた骨にまで仁愛を及ぼされました。先に功罪を知ってから埋葬することができるでしょうか。今、誅伐がすでに鍾会へ加えられ、法は全うされました。私は彼の遺体を収め、埋葬を行なって道義を貫きました。殿下は朽ちた骨を憎み野辺に捨てておいでですが、将来、仁者賢人に嘆かれることになります。それは残念なことではありませんか」と答えた。司馬昭はこれを聞きたいへん喜び、宴席で談笑してから寝殿に帰った。 陳寿は鍾会を「熟練した策略家であったが、大きな野心を抱き、災禍をよく考えずに反逆した結果、一族とともに殺害された」と評している。 『三国志演義』の毛宗崗の批評では、鍾会の反逆計画について「秘密が守られずしかも迅速でなかった。その死は当然である。しかし事がうまくいっていればいたで、諸将を殺した後に姜維に殺されていただろうから、どちらにせよ鍾会は死ぬことになっただろう」と評している。
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