姜維とは? わかりやすく解説

姜維Jiang Wei

キョウイ
キヤウヰ

202264
左大将軍・録尚書事・督中外軍事・仮節・涼州刺史平襄

字は伯約天水郡冀県の人。

父姜冏は天水郡功曹を務めていて、羌族叛乱遭遇したとき郡将庇って戦死した幼くして父を失ったので母と二人で暮らした鄭玄流の学問好み、郡に出仕して上計掾となり、さらに州に召されて従事任じられた。父の功績により姜維は中郎となり、天水郡軍事参画することになった

建興六年(二二八)、蜀の諸葛亮祁山現れたが、天水太守馬遵領内巡察のため姜維・功曹梁緒主簿尹賞・主記虔・郡吏上官子脩らを伴って外出であった。しかし馬遵は、各県寝返った聞くと姜維たちの忠誠心疑い夜陰紛れて逃亡し上邽県城立て籠もった。姜維たちは追いかけ上邽城に辿り着いた城門開かれなかった。そこで冀県帰ったがやはり城門閉ざされていた。やむなく諸葛亮降参した。蜀の先鋒馬謖街亭敗北喫し諸葛亮西県住民千戸連行して帰国したが、姜維は彼に同行したので母と生き別れになってしまう。諸葛亮は姜維を得て大い満足し、留府長史張裔参軍蔣琬に「姜維は仕事忠実に勤め思慮が行届いている。劭・馬良さえも彼に及ばないだろう。中虎歩軍五六千人調練する役目彼に委ねそのあと宮廷参内させて陛下お目通りさせたいものだ」と述べ、彼を倉曹掾・奉義将軍・当陽亭侯とした。ときに二十七歳。

次第昇進して監軍征西将軍となった。同十二年に諸葛亮没する成都帰還し、右監軍・輔漢将軍任命され諸軍統率し平襄侯に爵位上げられた。延煕元年二三八)に蔣琬随行して漢中駐留、彼が大司馬昇進するとその司馬となり、一軍率いてたびたび西方進出した。同六年、鎮西大将軍涼州刺史昇進し、同十年には衛将軍任じられ大将軍費禕とともに録尚書事となる。同年汶山郡平康県の蛮族叛乱鎮圧。また隴西南安金城進出してにて魏の大将軍郭淮夏侯霸戦った。蛮王治無戴らが住民ともども降伏してきたので彼らを成都近く移住させた。同十二年、仮に節を与えられる。ふたたび西平出た勝利できず帰陣した。

姜維は西方風俗詳しく軍才を自負していたので、羌族たちを仲間引き入れれば西域手中にできると考えていたが、費禕彼の計略僥倖を恃んだものと危ぶみ、一万上の大軍与えなかった。しかし同十六春に費禕亡くなると、その年の夏になって姜維は数万大軍催し、石営・董亭を経由して南安包囲した。魏の雍州刺史陳泰南安東南の洛門に到着すると、兵糧不足のため撤退した

十七年、督中外軍事任じられる。ふたたび隴西出陣すると狄道県李簡降伏してきた。さらに襄武進み、魏の将軍徐質撃ち破って首を斬った。多く敵兵降伏させ、河関狄道臨洮の三県の住民連行して蜀の民とした。

十八年、車騎将軍夏侯霸とともに狄道進出、洮水の西で雍州刺史王経撃ち破って数万人を殺し、さらに狄道城を包囲した。魏の征西将軍陳泰救援のため駆け付けてきたので退却、鍾題に駐屯した。

十九年春、任地において大将軍拝命した。鎮西大将軍胡済連繋して上邽県で合流しようとした胡済現れず、段谷にて魏の鄧艾大敗して多数死者出した。そのため人々は彼を恨んで西方離叛相次いだ。姜維は失策認めて降格願い出後将軍・行大将軍事となった。

二十年、魏の征東大将軍諸葛誕淮南において叛乱したので、魏の軍勢東方向かって手薄になった。姜維は軍勢数万率いて駱谷を通り沈嶺に着陣した。その北にあった長城には大量食料貯蔵してあったので、魏の大将軍司馬望がその守備固め、また隴右から鄧艾駆け付けてきた。姜維は進んで陣営築き何度も挑発したが、司馬望鄧艾渭水沿岸要害築いて守り固めるばかりだった。そのまま越年し諸葛誕滅ぼされたと聞いて撤退した大将軍復帰した

漢中防衛について建議し述べるに「守備隊漢城楽城まで下げ、敵を深く侵入させて挟み撃ちにすれば大勝利収められます」と。この計略認められ、督漢中胡済後方漢寿に下がり、監軍王含楽城護軍蔣斌漢城を守ることになった

景耀五年(二六二)、侯和に出陣した鄧艾敗れ退いて中に駐屯した。こうして姜維は毎年のように軍勢動かした勝利を得られず、もともと他国の人だったので孤立深めていった。しかも宦官黄皓右大将閻宇結託し、姜維の失脚画策していた。あるとき姜維は成都帰り黄皓取り除くべきと皇帝劉禅進言した。しかし劉禅聞き入れず黄皓を姜維のもとに送って詫び入れさせた。姜維は身の危険感じ黄皓屯田したいと告げて成都去りそのまま帰ることができなくなった

翌六年、魏の鍾会大軍動員準備していると知り張翼廖化陽安関・陰平守らせるよう本国要請した。しかし黄皓巫女言葉信じて敵が来ないと考え劉禅取り上げないよう告げ、その経緯誰にも知らされなかった。

やがて鍾会が駱谷に出陣し鄧艾が沓中に進軍して、ようやく劉禅は、右車騎将廖化に沓中の姜維を支援させ、左車騎将張翼輔国大将軍董厥らを陽安関に向かわせた。魏の諸葛諸が建威に入った聞いて姜維はこれを防いだが、一ヶ月ほどして鄧艾攻撃され陰平まで退いた一方鍾会漢城陽安関を陥落させたので、陰平放棄して剣閣まで後退した。ここで張翼董厥合流して抵抗したので、鍾会は進むことができず姜維に手紙送って懐柔ようとしたが、姜維は返答しなかった。

しかし鄧艾険路強行し景谷道を進み緜竹まで侵入して諸葛瞻撃破した。そこで皇帝劉禅鄧艾降伏した。姜維は諸葛瞻敗北以来劉禅動向注目していたが、降伏せよとの勅命受けたので武装解除し鍾会のもとに出頭した将兵はみな怒りにふるえ、刀を抜いて石を叩き割った鍾会は「なぜ来るのが遅れたのか」となじったが、姜維が「今でも早すぎたと思っております」と答えたので、彼を立派な人物だと思った

鍾会は姜維らを手厚く持てなし、彼らの官印・節・車蓋などを全て返してやった。鍾会外出時にはつねに姜維を馬車同乗させたり、室内では同じ敷物に座らせたりして寵愛し長史杜預に「姜維の立派さ諸葛誕夏侯玄でも及ばないだろう」と言った。姜維は鍾会叛逆意図があると見抜き、それを利用すれば蜀を再興できるだろうと考えた。そこで告げるに「貴方は毌丘倹諸葛誕叛乱鎮圧し、また蜀を平定して絶大な手柄立てました。しかし平和な時代が来ると韓信大夫種のように誅殺されますぞ。世俗棄てて仙人暮らしをなさいませ」、鍾会「もっともであるが私には浮世離れしたことはできない。他に手段はあるだろうか」、姜維「では貴方の才能用いるだけのことです」と。鍾会鄧艾冤罪被せ更迭、姜維らを率いて成都入城を果たすと益州牧を自称して魏に叛逆し、姜維に軍勢五万与えた。魏の将兵怒り鍾会とともに姜維を殺害した

参照尹賞 / 閻宇 / 王含 / 王経 / 夏侯玄 / 夏侯霸 / 郭淮 / 毌丘倹 / 韓信 / 姜冏 / 胡済 / 黄皓 / 司馬望 / 諸葛諸 / 諸葛瞻 / 諸葛誕 / 諸葛亮 / 上官子脩 / 蔣琬 / 蔣斌 / 鍾会 / 大夫種 / 治無戴 / 張裔 / 張翼 / 陳泰 / 鄭玄 / 杜預 / 董厥 / 鄧艾 / 馬遵 / 馬謖 / 馬良 / 費禕 / 劭 / 劉禅 / 虔 / 諸 / 廖化 / 渭水 / 陰平郡 / 陰平 / 益州 / 街泉亭街亭) / 成固県(楽城県) / 沔陽県漢城県) / 葭萌県(漢寿県) / 漢中郡 / 祁山 / 冀県 / 魏 / 金城郡 / 景谷道 / 建威 / 剣閣 / 侯和 / 上邽県 / 鍾題 / 蜀 / 沈嶺 / 西県 / 成都県 / 西平 / 石営 / 段谷 / 長城 / 狄道県 / 天水郡 / 洮 / 董亭 / 沓中 / 当陽亭 / 南安郡 / 汶山郡 / 平康県 / 平襄県 / / 緜竹県 / 雍州 / 陽安関 / 駱谷 / 涼州 / 隴西郡 / 隴右 / 淮南 / 右監軍 / 右車騎将軍 / 右大将軍 / 衛将軍 / 監軍 / 侯 / 功曹従事 / 護軍 / 後将軍 / 左車騎将軍 / 左大将軍 / 参軍 / 刺史 / 司馬 / 従事 / 主記 / 主簿 / 上計掾 / 征西将軍 / 征東大将軍め倉曹掾 / 大司馬 / 太守 / 大将軍 / 中監軍 / 中郎 / 長史 / 鎮西大将軍 / 亭侯 / 督 / 奉義将軍 / 輔漢将軍 / 牧 / 輔国大将軍 / 留府長史 / 録尚書事 / 仮節(仮の節) / 宦官 / 羌族 / 行 / 車蓋 / 中虎歩軍 / 屯田 / 巫女


姜維

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/09 03:03 UTC 版)

姜維
代の書物に描かれた姜維
蜀漢
平襄侯 / 大将軍
出生 建安7年(202年
涼州天水郡冀県
死去 景元5年1月18日264年3月3日
拼音 Jiāng Wéi
伯約
諡号 開明王(西魏による追贈)
主君 曹叡劉禅
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姜 維(しょうい、または きょう い、建安7年(202年) - 景元5年1月18日264年3月3日))は、中国三国時代の人物。蜀漢に仕えた。伯約涼州天水郡冀県の出身。父は姜冏。妻は柳氏[1]。末裔に末の姜宝誼・官僚姜恪中国語版[2]・姜協がいる。

生涯

出生

姜氏は代々「天水の四姓」と呼ばれる豪族だった。10代前半に、郡の功曹だった父が異民族の反乱鎮圧に従軍し戦死したため、母の手で育てられた。郡に出仕して上計掾となった後、召されて雍州刺史の従事となった。その後、かつての父の功績が取り上げられて、中郎の官を贈られ、天水郡の軍事に参与することになった。

蜀への降伏

建興6年(228年)、蜀の諸葛亮北伐にて接近した際、天水太守馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏を耳にした馬遵は、配下の梁緒(功曹)・尹賞(主簿)・梁虔(主記)・姜維(中郎)らが諸葛亮と内通しているのではないかと疑い、上邽に逃亡した。姜維らは彼を追ったが城内に入る事を許されなかった。このため冀県に戻ったが、そこでも受け入れてもらえなかったため、取り残された姜維らは行き場を失い、仕方なく蜀に降伏した。諸葛亮は街亭の戦いで敗北すると、西県の1000余家と姜維らを引き連れて成都に帰還した。そのため姜維はこれ以後、魏領に残った母と生き別れになった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。涼州で最高の人物だろう」と言い、また「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評するほど、その才を高く評価し、倉曹掾・奉義将軍の官を与え、当陽亭侯に封じている。

裴松之が注で引用する孫盛の『雑記』によれば、姜維の母親が魏に戻るよう手紙を送ったが、姜維は蜀で栄達するという大望があるため戻らないと返事したとある。

蜀軍の中枢へ

五丈原諸葛亮廟の姜維像

その後は北伐に従軍し、中監軍・征西将軍に昇進した[3]。建興12年(234年)、諸葛亮の死後は成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍を授けられた。また諸軍を指揮・統率する事を許され、平襄侯に進封された。

延熙元年(238年)、諸葛亮の後を継いだ大将軍蔣琬は、魏征伐の準備のため大軍を統率して漢中に駐屯し、姜維もそれに従軍した。その後、姜維は司馬に任命され、一軍を率いて何度も西方に侵入した。延熙3年(240年)、羌族の迷当の反乱に呼応して隴西に侵攻したが、郭淮に鎮圧されたため撤退した。延熙6年(243年)、蔣琬は北伐を断念して主力軍を漢中から撤退させた。その際、姜維を鎮西大将軍・涼州刺史に任じて北方への備えに残した。同時期に国境を預かる者として鎮南大将軍馬忠、鎮北大将軍王平、東を預かる前将軍鄧芝がいる。延熙10年(247年)には、衛将軍録尚書事と昇進を続け、軍事の中枢を担うようになった。

同年、汶山での異民族の反乱を制圧すると、隴西郡に進出して魏の郭淮・夏侯覇らと戦い、これに勝ち[4]この地の異民族を味方に付けた。涼州の胡王である白虎文等が民衆を率いて降ってきたため、これを繁県に住まわせた。汶山の平康夷が反したため、姜維はこれを討ち平げた。姜維は還ると、節を假された。延熙12年(249年)、姜維は再び西平に出兵し勝利を得る事なく撤退したが、郭脩を捕らえた[5]。姜維は郭脩を脅迫したが、屈服しなかったという[6]。姜維は、西方の風俗に通じている事や自らの才能と武勇を恃みとし、大規模な北伐軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが、蔣琬の後任である大将軍費禕は賛同せず、姜維に1万以上の兵を与えなかった。習鑿歯の『漢晋春秋』によると、費禕は姜維に対し「我々の力は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。その丞相でさえ中原を定める事が出来なかったのだ。ましてや我々に至っては問題外である。今は内政に力を注ぎ、外征は人材の育成を待ってからにすべきだ」と語っていたという。

北伐と蜀の衰退

延熙16年(253年)、費禕が魏の降将の郭循(郭脩)に刺殺されると、姜維は費禕の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。翌年、魏の李簡の寝返りに乗じて狄道県をはじめ三県を制圧し、徐質を討ち取った。さらにその翌年には、魏から亡命してきた夏侯覇らとともに魏の王経を洮水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだという。(狄道の戦い)この功績により翌延熙19年(256年)に大将軍に昇進した。しかし同年、胡済が約束を破り後詰に現れなかったため、段谷で魏の鄧艾に大敗し(段谷の戦い)、国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格させる事で敗戦の責任を取っている。延熙20年(257年)、魏の諸葛誕寿春で反乱を起こした(諸葛誕の乱)のに乗じて魏に攻め入ったが勝てず、翌景耀元年(258年)に諸葛誕の敗死を聞き撤退した。同年、大将軍に復帰した。こうしたことから国内では北伐への批判が高まり、この頃に譙周陳祗との討論を元に、『仇国論』という北伐の無謀さを批判した著書をまとめた。また、朝廷内で数少ない北伐推進派だった陳祗も同年に没し、姜維は孤立した。

このため姜維は北伐を一時中断し、代わりに漢中の守備に手をつけた。姜維は「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、兵を漢城・楽城の二城に集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊し撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう」と建議した。その結果、胡済を漢寿まで退かせ、監軍の王含に楽城を守らせ、蔣斌に漢城を守らせた。また、西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨遠に防御陣を築いた。

姜維は長年に亘り軍事面のみに力を注ぎ、一切内政を顧みなかった。このため劉禅黄皓を重用して酒色に溺れてしまい、国政は混乱した。

景耀5年(262年)、4年振りに北伐を敢行したが、鄧艾に撃退された。涼州出身の姜維は、蜀漢の朝廷内では孤立しがちであったため、同年に黄皓が閻宇と結託し姜維の軍権没収を画策した際には、当時朝政を担っていた諸葛瞻董厥もこれに同調し、益州刺史に任じて成都に留め置かせようとしたほどであった(孫盛『異同記』)。姜維は黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入れられず、また身の危険[注釈 1]も感じたため、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。その際に、姜維は趙雲ら蜀設立の功労者に対し、侯の諡を送るべきと劉禅に進言した。設立の功労者らには侯の諡が送られた。

蜀漢の滅亡と姜維の最期

姜維

景耀6年(263年)、姜維は魏の侵攻が近いと見て、劉禅に張翼廖化を増援に派遣するよう上表した。しかし黄皓は鬼神巫女神託を信じ、敵が来ないと考えていたため、劉禅にこの事を採り上げないよう意見した。そのため、群臣は姜維の上表を知らされなかった。

果たして同年5月、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾・鍾会が侵攻して来たため、ようやく劉禅は援軍を派遣した。一方の姜維は剣閣で鍾会軍に抵抗した。しかし姜維と鍾会が対峙している間に、鄧艾が陰平から迂回して成都盆地に進入し、綿竹で諸葛瞻を討ち取った。この知らせを聞いた劉禅は最早抵抗すらできず、鄧艾に成都を攻められる前に降伏した。劉禅降伏の報を受けた姜維は、残念に思いながらも鍾会に降伏した(蜀漢の滅亡)。将士らは皆怒り、剣で石を斬ったという。鍾会に「なぜ降伏が遅れたのか」と詰られたが、「これでも早すぎたのだ」と答え、鍾会はこの返答を非常に立派だとした。

降伏後の姜維は、鍾会が魏に反逆する意図を抱いている事を見抜き、鍾会に接近して反逆するよう提案した[8]。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ、機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようというものであった。鍾会は姜維の進言に従い、遠征に従軍した将軍らを幽閉し反乱を準備した。だが将軍らが命の危機を感じて暴動を起こしたため計画が失敗し、姜維は鍾会および妻子らと共に殺された。享年63。

三国志』蜀書姜維伝の注に引く『世語』によれば、魏兵が彼の遺体を斬り刻んで胆を取り出したとき、その胆は一升枡ほどもある巨大なものであったと記述されている。

西魏のときに宇文泰によって開明王と追贈された[9]

かつて剣閣県剣門関鎮に墓所があり、墓碑・墓廟などがあったが、1936年に川陝公路(現在のG108国道)の整備のため取り壊された。唯一残っていた墓亭も、1960年代に文化大革命で破壊され、現在は跡形もない[10]

甘粛省南東部の天水市甘谷県には姜維の墓所があり、彼を祀る「姜公祠」が存在し、祠には姜維を描いた壁画、像などがある。また四川省広元市剣閣県の剣門関近くに『漢大将軍姜維之墓』が存在する。

三国志演義での活躍

成都武侯祠の姜維像

小説『三国志演義』では馬遵配下の将として登場し、諸葛亮の計略を逆手にとって危機に陥らせたり、趙雲と一騎討ちで互角の勝負を演じたりしている。諸葛亮はその才を高く見込み、自らの後継者とするために計略を用いて姜維を蜀に投降させている。

『演義』での姜維は諸葛亮の第一後継者としての趣が強く、基本的に才覚ある善玉に描かれており、諸葛亮の死後、北伐を続けて時に敗れる描写はあるものの、それによる国力衰退に関しては特筆されていない。

これにより、晩年に重臣たちが姜維を中央から遠ざけていくということに関し劉禅の暗愚を強調し、姜維の非を読者に感じさせにくい意匠になっている。なお演義第119回では、なぜか姜維の享年を59としている。また、取り出された胆も鶏卵ほどの大きさと、史実よりも大幅に縮小されている。

横山光輝の『三国志』では、蜀征討戦に対し諸将と共に剣閣の要害に立て籠もり連弩で抵抗している。このため鄧艾は姜維との戦いを諦め、別動隊を率いて迂回し成都を攻め、姜維が鍾会率いる魏の主力と戦っている間に劉禅らを降伏させてしまう。劉禅らの降伏を知り、劉禅から降伏の勅命を受けた姜維は、諸葛亮から託された蜀を守れなかったことを嘆きつつ、岩に剣を叩きつけて折り、他の兵士らと共に泣きながらそれに従い降伏するという締めくくりになっている。

吉川英治の小説『三国志』では、最期が鍾会に逆らったことで彼に殺されるという何故か正史とは正反対の末路を辿ったことになっている。

評価

才能については諸葛亮・鍾会だけでなく、鄧芝も高く評価し、蔣琬は北伐を姜維に任せようとしていた。反面、頑なに北伐を行なったために、譙周を始めとする宮中の官僚や、廖化・張翼らの将軍にも非難されている。

魏の鍾会は、姜維を高く評価し魏の名士と比較すれば、公休(諸葛誕)・泰初(夏侯玄)も及ばないと評した。
また姜維に何度も苦杯を舐めさせた鄧艾も、当代の英雄であり、私と会ったが為に、窮しただけなのだと姜維を称えた。

西晋の歴史家郭頒は著作、『魏晋世語』において時の蜀の官属は皆な天下の英俊であったが、姜維の右に出る者はいなかったと評した。

西晋の王崇は、鍾会の知略は張良に為すと称えられた、姜維はこれをいくばくもなく陥れたのだからその知略はそれに勝るものであったといえよう、惜しい哉と評した[11]

『三国志』の撰者陳寿は「姜維は文武ともに優れていたが、多年に亘り国力を無視した北伐を敢行し、蜀の衰亡を早めた」という批評を下している。また孫盛は「姜維は防衛の任務に就きながら、敵を招き寄せ領土を失った。滅亡後は、幸運にも鍾会の厚情を受けておきながらも、鍾会を裏切る事を考え、道理に外れた成功を得ようと望んだ。なんと愚かな事だろうか」と断じている。

一方、裴松之は姜維に対して好意的評価を下しており、姜維の死後、郤正がその人格を高く評価した文章に対する孫盛の痛烈なる批判について、再批判を加えている。また東晋干宝は「蜀の滅亡時に死ぬことができず、鍾会の乱で死んだのは、死ぬべき場所を得られなかったからといえよう」という意見を述べている。

また南宋の胡三省は「姜維の知は、鍾会を手のひらで転がすに足るものだった。時間と命は限られており、どうして行わずにいられようか。姜維の心は終始、漢の為であり、千載の機会の下、丹の如く輝いた。陳寿や孫盛が貶することは、誤りである」と述べている。

日本吉川英治は自著『三国志』のあとがきにおいて「姜維の多熱的感情は蜀史の華である」としながらも、「諸葛亮には遠く及ばないと知りながら、その誓うところ余りに大きく、その任あまりに多く、しかも功を急いだ結果、蜀の衰退を速めてしまった」という意見を述べている。

脚注

注釈

  1. ^ 諸葛瞻や董厥は、尚書を掌握して軍を含めた人事権を握っており、成都に帰還すれば彼らによって罷免される可能性が高かった[7]

出典

  1. ^ 蜀漢英武大将軍伯約公伝『姜氏統宗譜』賛序および『大唐勅修烈山四岳天水郡姜姓古譜総世系』より。
  2. ^ 姜明の曾孫、姜遠の孫、姜宝誼の子、姜知友の祖父(『新唐書』宰相世系表)。
  3. ^ 『三国志』巻四十『李厳伝』で註に引く李厳罷免の上表によれば、姜維は「行護軍征南將軍當陽亭侯臣姜維」となっている。同じ表の中に「行前監軍征南將軍臣劉巴」という人物がおり、征南将軍の将軍号が重複している。また姜維には征南将軍に任じられた記録やそれにふさわしい南方での戦功がない。「中監軍・征西将軍」の誤記だったとすると、同じ文中の鄧芝の中監軍や魏延の征西大将軍と重複する。それに四征・四鎮将軍では前後の連名の人物とつり合いがとれない。上表中の序列から考えて、李厳罷免時の姜維の地位は征虜将軍などの雑号将軍の誤りと考えられる。
  4. ^ 『華陽国史』「維出隴西。與魏將郭淮、夏侯霸戰,剋之」
  5. ^ 西平の郭脩は、節操を磨き品行を高め、心の持ち方は正しかった。以前、蜀の大将姜維が郭脩の郡に侵入し略奪を働いたとき、捕えられて連れて行かれた。『魏書 三少帝紀第四 斉王紀』
  6. ^ 『魏氏春秋』
  7. ^ 柿沼陽平「蜀漢的軍事優先型経済体系」(初出:『史学月刊』2012年第9期(中国・河南大学)/改題所収:柿沼「蜀漢の軍事優先型経済体制」『中国古代貨幣経済の持続と展開』(汲古書院、2018年)) 2018年、P205-208.
  8. ^ 鍾会は「夏侯玄や諸葛誕でも姜維には及ばないだろう」と評している。
  9. ^ 『清建屠侯祠碑』記西魏封姜侯開明王
  10. ^ 『中国文物地図集四川分冊』(文物出版社 2009)
  11. ^ 『華陽国志』

姜維(きょうい)

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三国志 (北方謙三)」の記事における「姜維(きょうい)」の解説

魏の校尉だったが、蜀の「志」に共感し投降以降蜀の若手部将筆頭として活躍

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姜維

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三國志曹操伝」の記事における「姜維」の解説

孔明見込まれ知将。赤・青両ルートともに孔明片腕として曹操軍立ちはだかる

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姜維

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STOP劉備くん!」の記事における「姜維」の解説

孔明支え若き後継者。もともとは魏の武将だったが、孔明人格にほれ込み魏を裏切る。

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姜維

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恋姫†無双シリーズの登場人物」の記事における「姜維」の解説

蜀書外史登場する人物さいはて住んでいる少女五胡血を引いている為村人から疎まれウソツキ」と呼ばれているが、村人助けたいと願うやさしい心持ち主大切なことはいつも忘れてしまう性格真名は「胡花」(こはる)。

※この「姜維」の解説は、「恋姫†無双シリーズの登場人物」の解説の一部です。
「姜維」を含む「恋姫†無双シリーズの登場人物」の記事については、「恋姫†無双シリーズの登場人物」の概要を参照ください。

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