三国志演義での活躍
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小説『三国志演義』では、まず孫権の時代に集まった人材の一人として名が登場する。赤壁の戦いでは、黄蓋の苦肉の策を見抜き進んでこれに協力し、甘寧達と謀議を巡らしている。さらに曹操の下へ使者として赴き、黄蓋の降伏を疑った曹操を、優れた弁舌で丸め込むなどの活躍を見せている。さらに夷陵の戦いでは、相次ぐ敗戦にうろたえる孫権に対し、陸遜を大都督に任命するよう推挙し、陸遜を過小評価する張昭・顧雍・歩騭らの反対を弁舌で退けている。
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三国志演義での活躍
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小説『三国志演義』では、河北の住人である関定の次男として登場する。兄は関寧。182年に出生したと設定されている。曹操に徐州を追われ、散り散りになった劉備ら三兄弟の再会した関定の屋敷で初登場する。その際、関定が関平を随行させてほしいと頼み込んだため、劉備のとりなしで子がいない関羽の養子となる。 劉備の養子劉封と行動をともにする場面が多く、新野に夏侯惇が攻めて来た際や、益州の地を取りに行くと称し劉備を殺そうとした周瑜を防いだ際、また益州攻略戦への従軍などで描かれている。益州攻略戦において龐統が戦死したため、諸葛亮たち荊州守備勢の助けを得るため使者として向かい、そのまま関羽と共に荊州に留まる。その後、関羽に従い襄陽攻めなどで活躍するが、呂蒙に攻められ関羽と共に首を斬られている。 この『三国志演義』での描写により、関帝(関羽)を祭った関帝廟の随神として周倉と共に祭られている。右側に立っているのが関平帝君(関平)である。 なお関平死後、義弟として関興の他に関索が登場する。
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三国志演義での活躍
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小説『三国志演義』では、60歳を過ぎた老将でありながら、弓の名手としてその腕前を披露する姿が描かれ、敵将を一騎討ちで討ち取る場面も多い。老いるともなお勇猛果敢な活躍を見せている。 関羽率いる劉備軍が長沙に攻め寄せると、韓玄配下としてこれに応戦する。その際、関羽との一騎討ちで互角に戦うが、馬が躓き危うく討ち取られそうになる。関羽は黄忠の武勇を認め「貴殿のお命しばし預けた。早く馬を換えて戦いに戻られよ」と言い、これを見逃している。これに恩義を感じた黄忠は再戦時に、関羽の兜の緒に矢を命中させる事で、関羽の命を奪うことなく撤退させるが、韓玄に敵軍に内応しているのではと疑われ、捕縛され処刑されそうになる。しかし、魏延の反乱で韓玄が死亡すると、劉備に仕えることになる。 漢中攻略時には、同じく老将である設定の厳顔とコンビを組み、張郃・夏侯尚らを破り、自分を兄の仇と狙う韓玄の弟である設定の韓浩を討ち取っている。その後は定軍山で夏侯淵を討ち取り、漢中平定後に五虎大将軍の一人とされるのである。関羽が黄忠を老将と侮り、同列扱いされるのを嫌うのは史実通りである。 また史実では220年に亡くなっているが、『演義』では夷陵の戦いにも参加している。その最中、劉備が関興・張苞といった若者を称え、老兵を軽んじる発言をしたため、部下十数名で呉の潘璋の陣へと斬り込んでいる。しかし最後は馬忠の矢にあたり、それが元で死亡してしまう。 現在の中国では、老いて益々盛んな人を、演義の中で描写された黄忠のイメージから指して「老黄忠」と呼ぶ様になっている。
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三国志演義での活躍
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小説『三国志演義』では馬遵配下の将として登場し、諸葛亮の計略を逆手にとって危機に陥らせたり、趙雲と一騎討ちで互角の勝負を演じたりしている。諸葛亮はその才を高く見込み、自らの後継者とするために計略を用いて姜維を蜀に投降させている。 『演義』での姜維は諸葛亮の第一後継者としての趣が強く、基本的に才覚ある善玉に描かれており、諸葛亮の死後、北伐を続けて時に敗れる描写はあるものの、それによる国力衰退に関しては特筆されていない。 これにより、晩年に重臣たちが姜維を中央から遠ざけていくということに関し劉禅の暗愚を強調し、姜維の非を読者に感じさせにくい意匠になっている。なお演義第119回では、なぜか姜維の享年を59としている。また、取り出された胆も鶏卵ほどの大きさと、史実よりも大幅に縮小されている。 横山光輝の『三国志』では、蜀征討戦に対し諸将と共に剣閣の要害に立て籠もり連弩で抵抗している。このため鄧艾は姜維との戦いを諦め、別動隊を率いて迂回し成都を攻め、姜維が鍾会率いる魏の主力と戦っている間に劉禅らを降伏させてしまう。劉禅らの降伏を知り、劉禅から降伏の勅命を受けた姜維は、諸葛亮から託された蜀を守れなかったことを嘆きつつ、岩に剣を叩きつけて折り、他の兵士らと共に泣きながらそれに従い降伏するという締めくくりになっている。 吉川英治の小説『三国志』では、最期が鍾会に逆らったことで彼に殺されるという何故か正史とは正反対の末路を辿ったことになっている。
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