厳顔
(?~?) | ||
劉璋の将。巴郡臨江県の人《華陽国志》。『華陽国志』は彼を「壮烈、将軍厳顔」と評している。 厳顔は巴郡太守趙筰のもとで将軍を務めていたが《華陽国志》、劉備が劉璋に招かれて巴郡を通過したとき、胸を叩きながら「一人で奥山にいて、猛虎を放って身を守るようなものだ」と歎いている《張飛伝》。 『張飛伝』では厳顔を巴郡太守としているが、彼の本郡であるため誤りとわかる《華陽国志》。 張飛が諸葛亮らとともに益州に侵入し、巴郡に迫ると、厳顔は降伏せずに抗戦した。戦いに敗れて生け捕りになり、張飛が「なぜ降伏しなかったのだ」と怒鳴ると、「益州には首を刎ねられる将軍はいても、降伏する将軍はいないのだ」と答えた。張飛が怒って首を斬ろうとすると、「首を斬りたければさっさと斬れ。わざわざ腹を立てる必要はあるまい」と言った。張飛はその意気に感心し、縄をほどいて彼を賓客としてもてなした《張飛伝》。 〔雒城までの道筋は厳顔の部下が固めていたが、厳顔が張飛の軍に随行して彼らを降伏させた。益州が平定されると前将軍に任じられる。張郃が葭萌関を攻撃すると、黄忠とともに加勢となり、天蕩山の守将夏侯徳を斬った。〕 当時劉備は左将軍であって、厳顔がたとえ張飛の賓客であったとしても前将軍に任ずることはできないし、また劉備と同列に扱うことも適当でないように思われる。羅貫中の誤りである。 【参照】夏侯徳 / 黄忠 / 諸葛亮 / 張郃 / 張飛 / 趙筰 / 劉璋 / 劉備 / 益州 / 葭萌関 / 天蕩山 / 巴郡 / 雒県 / 臨江県 / 将軍 / 前将軍 / 太守 / 華陽国志 |
厳顔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 13:38 UTC 版)
厳顔 | |
---|---|
清代の書物に描かれた厳顔 | |
蜀 | |
出生 | 生年不詳 益州巴郡臨江県 |
死去 | 没年不詳 |
拼音 | Yán Yán |
主君 | 劉焉→劉璋→劉備 |
厳 顔(げん がん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の武将。益州巴郡臨江県の人[1]。
経歴
劉焉、次いで劉璋に仕え、巴郡太守だった趙筰の部将であった。建安16年(211年)、劉備が劉璋の招きで入蜀すると、「一人で奥山に座し、猛虎を放って我が身を守るようなものだ」と嘆息したという。
建安17年(212年)、劉備が益州を奪い取ろうと攻めて来た時にも巴郡を守っていたが、劉備軍の張飛の攻撃に遭って捕らえられた。捕虜になったのだから自分に跪けと言う張飛に対し、「お前達は無礼にも、我が州を侵略した。我が州に首を刎ねられる将軍はいても、降伏する将軍はいない。早く首を斬れ」と堂々と言い放った。張飛は腹を立てたが、厳顔はさらに「匹夫め、さっさと斬れ。怒るだけ無駄だ」と言い放った。この事で張飛は感嘆し、厳顔の縄を自ら解き、厚く持て成したといわれている。このため厳顔も降伏し、以後は劉備の家臣となった。
類似した逸話は由利維平にも存在し、捕虜の身でありながら「運尽きて囚人と為るは、勇士の常」と堂々とした態度で梶原景時の無礼をたしなめ、畠山重忠が礼を尽くすと尋問に応じた。それを見ていた源頼朝も「勇敢の誉れ有るに依って」罪を許した。
正史において厳顔の記述は少なく、生没年も不詳で、『三国志演義』で描かれるような老将という表現も無い。ただ、張飛に言い放った言葉だけは明確に記述されている。この言葉が厳顔の存在を際立たせていると言える。
『三国志演義』など
小説『三国志演義』で厳顔は老将の設定だが、正史で老将なのは張任である。張飛に降伏した後、自ら他の守将に降伏勧告を行なっている。その後は黄忠と共に老将コンビを結成して漢中攻略の際には大いに活躍している。
南宋末期の右丞相文天祥が作った詩「正気の歌」にも、蘇武・張巡ら歴代の忠臣義士と並んで厳顔が登場する。生没年も不明で、最終的には帰順した人物が張良・諸葛亮・蘇武といった顔触れとともに登場するのも、ひとえに張飛に言い放った言葉の強い印象故と言えよう。
重慶市忠県で三国時代の墓が発見された際、地元の言い伝えを根拠に厳顔の墓であると主張された事があった[2]。
脚注
厳顔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)
「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「厳顔」の解説
元劉璋の配下。張飛を相手に一歩も引かず応戦するが、彼の計略にかかり捕らわれる。捕らわれて尚毅然とした態度で抵抗し、その態度に感服した張飛から説得され、玄徳の配下となる。
※この「厳顔」の解説は、「三国志 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「厳顔」を含む「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事については、「三国志 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。
厳顔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 03:45 UTC 版)
はじめ劉璋に仕えていた劉備の配下。黄忠とは老将同士ということで仲がいい。
※この「厳顔」の解説は、「三國志曹操伝」の解説の一部です。
「厳顔」を含む「三國志曹操伝」の記事については、「三國志曹操伝」の概要を参照ください。
厳顔(げん がん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)
※この「厳顔(げん がん)」の解説は、「蒼天航路」の解説の一部です。
「厳顔(げん がん)」を含む「蒼天航路」の記事については、「蒼天航路」の概要を参照ください。
厳顔と同じ種類の言葉
- >> 「厳顔」を含む用語の索引
- 厳顔のページへのリンク