巴郡とは? わかりやすく解説

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巴郡Ba

領城14→7
戸数310,691→約20,000
人口1,086,049→不明

興平二年(一九五)、征東中郎将趙韙提案によって三分割され、益州劉璋龐羲を巴郡太守として安漢政務を執らせ、江州から臨江までを永寧郡、胊忍から魚復までを固陵郡とした。建安六年(二〇一)に魚復の蹇胤が郡名に「巴」の字を付けるよう要求したので、巴郡を巴西郡改め永寧郡を巴郡、固陵郡巴東郡とした。こうして「三巴」と呼ばれるようになったのである。また涪陵の謝本の提案により涪陵郡設置された。はじめ江州で郡の統治行っていたが、のちに墊江平都閬中郡治を遷した。前漢時代には江州水の北に郡治があって、柑橘官が設置されていたが、のちに南の城に遷り、もとの役所北府城と呼ぶようになった

太守蔡琰 / 趙筰厳顔) / 張裔 / 袁約 / 費観 / 怡思和 / 柳隠

【領城】江州 / 宕渠 / 胊忍 / 閬中 / 魚復 / 臨江 / / 涪陵 / 墊江 / 安漢 / 平都 / 充国(西充国) / 宣漢 / 漢昌 / (楽城) / (常安


巴郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/14 06:48 UTC 版)

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巴郡(は-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代から隋代にかけて、現在の重慶市四川省東部にまたがる地域に設置された。

概要

秦が巴国を滅ぼし、巴郡を置いた。

前漢のとき、巴郡は益州に属し、江州臨江閬中墊江朐忍安漢宕渠魚復充国涪陵の11県を管轄した。前漢末に15万8643戸、70万8148人があった[1]

後漢のとき、巴郡は江州・宕渠・朐忍・閬中・魚復・臨江・枳・涪陵・墊江・安漢・平都・充国・宣漢漢昌の14県を管轄した[2]190年初平元年)、益州牧の劉璋が趙穎の建議を受けて巴郡を分割した。江州から臨江までの県が永寧郡となり、朐忍から魚復までの県が固陵郡となり、墊江以上の県が巴郡となり、巴郡は安漢に郡治を移した。201年建安6年)、劉璋が永寧郡を巴郡とし、固陵郡を巴東郡とし、もとの巴郡を巴西郡とした[3]。ただしこの後漢末の三巴成立の経緯は、譙周『巴記』を引く正史の諸書に異説がみられる。

のとき、巴郡は梁州に属し、江州・臨江・墊江・枳の4県を管轄した[4]

南朝宋のとき、巴郡は江州・臨江・枳の3県を管轄した[5]

480年南朝斉建元2年)、巴州が立てられ、巴東・建平・巴郡の3郡を管轄した。483年永明元年)、巴州は廃止され、巴郡は益州の属郡に戻された[6]

583年開皇3年)、隋が郡制を廃すると、巴郡は渝州と改められた。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、渝州は巴郡と改称された。江津・涪陵の3県を管轄した[7]

618年武徳元年)、が郡制を廃すると、巴郡は渝州と再び改称され、巴郡の呼称は姿を消した[8]

脚注

  1. ^ 班固漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、362-363頁。
  2. ^ 後漢書』郡国志五
  3. ^ 華陽国志』巴志
  4. ^ 晋書』地理志上
  5. ^ 宋書』州郡志四
  6. ^ 南斉書』州郡志下
  7. ^ 隋書』地理志上
  8. ^ 旧唐書』地理志二


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