巴郡
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興平二年(一九五)、征東中郎将趙韙の提案によって三分割され、益州牧劉璋は龐羲を巴郡太守として安漢で政務を執らせ、江州から臨江までを永寧郡、胊忍から魚復までを固陵郡とした。建安六年(二〇一)に魚復の蹇胤が郡名に「巴」の字を付けるよう要求したので、巴郡を巴西郡と改め、永寧郡を巴郡、固陵郡を巴東郡とした。こうして「三巴」と呼ばれるようになったのである。また涪陵の謝本の提案により涪陵郡が設置された。はじめ江州で郡の統治を行っていたが、のちに墊江・平都・閬中と郡治を遷した。前漢の時代には江州巴水の北に郡治があって、柑橘官が設置されていたが、のちに南の城に遷り、もとの役所を北府城と呼ぶようになった。 【太守】蔡琰 / 趙筰(厳顔) / 張裔 / 袁約 / 費観 / 怡思和 / 柳隠 【領城】江州 / 宕渠 / 胊忍 / 閬中 / 魚復 / 臨江 / 枳 / 涪陵 / 墊江 / 安漢 / 平都 / 充国(西充国) / 宣漢 / 漢昌 / (楽城) / (常安) |
巴郡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/14 06:48 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動巴郡(は-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から隋代にかけて、現在の重慶市と四川省東部にまたがる地域に設置された。
概要
秦が巴国を滅ぼし、巴郡を置いた。
前漢のとき、巴郡は益州に属し、江州・臨江・枳・閬中・墊江・朐忍・安漢・宕渠・魚復・充国・涪陵の11県を管轄した。前漢末に15万8643戸、70万8148人があった[1]。
後漢のとき、巴郡は江州・宕渠・朐忍・閬中・魚復・臨江・枳・涪陵・墊江・安漢・平都・充国・宣漢・漢昌の14県を管轄した[2]。190年(初平元年)、益州牧の劉璋が趙穎の建議を受けて巴郡を分割した。江州から臨江までの県が永寧郡となり、朐忍から魚復までの県が固陵郡となり、墊江以上の県が巴郡となり、巴郡は安漢に郡治を移した。201年(建安6年)、劉璋が永寧郡を巴郡とし、固陵郡を巴東郡とし、もとの巴郡を巴西郡とした[3]。ただしこの後漢末の三巴成立の経緯は、譙周『巴記』を引く正史の諸書に異説がみられる。
晋のとき、巴郡は梁州に属し、江州・臨江・墊江・枳の4県を管轄した[4]。
480年(南朝斉の建元2年)、巴州が立てられ、巴東・建平・巴郡の3郡を管轄した。483年(永明元年)、巴州は廃止され、巴郡は益州の属郡に戻された[6]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、巴郡は渝州と改められた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、渝州は巴郡と改称された。巴・江津・涪陵の3県を管轄した[7]。
618年(武徳元年)、唐が郡制を廃すると、巴郡は渝州と再び改称され、巴郡の呼称は姿を消した[8]。
脚注
- ^ 班固『漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、362-363頁。
- ^ 『後漢書』郡国志五
- ^ 『華陽国志』巴志
- ^ 『晋書』地理志上
- ^ 『宋書』州郡志四
- ^ 『南斉書』州郡志下
- ^ 『隋書』地理志上
- ^ 『旧唐書』地理志二
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