趙韙
巴西郡安漢の人《華陽国志》。一名を趙穎ともいう《華陽国志》。 はじめ中央で太倉令の官を務めていたが、官を棄てて益州牧劉焉に従って益州帳下司馬となり、劉焉が没すると、治中従事王商らと計って劉璋を擁立した。朝廷では劉璋を監軍使者・領益州牧に、趙韙を征東中郎将に任じて荊州牧劉表を討伐させた《劉焉伝》。興平二年(一九五)、巴郡を三分割して新たに固陵郡・永寧郡を立てることを進言《華陽国志》。 益州には南陽郡・三輔地方の人々が数万戸も流れ込んでいて、劉璋は彼らから兵士を徴募して東州兵と名付けていたが、東州兵が益州の人々を害すことがあっても取り締まることができなかった。趙韙が人々の心をつかんでいたので、劉璋は彼に東州兵の問題を委ねた《劉璋伝》。建安五年(二〇〇)、趙韙はしばしば劉璋に進言したものの容れられず、そうした恨みから劉璋に叛逆する《華陽国志》。趙韙は荊州牧劉表と結び、州内の豪族らを率いて都合数万人の軍勢を擁し、蜀郡・広漢・犍為が彼に呼応した。劉璋は成都城に籠って防戦し、東州兵も必死になって反撃し、江州まで進んで趙韙を攻撃した。翌六年、趙韙の部下龐楽・李異らが裏切って、趙韙を斬殺した《劉璋伝》。 【参照】王商 / 龐楽 / 李異 / 劉焉 / 劉璋 / 劉表 / 安漢県 / 永寧郡 / 益州 / 荊州 / 犍為郡 / 広漢郡 / 江州県 / 固陵郡 / 三輔 / 蜀郡 / 成都県 / 南陽郡 / 巴郡 / 巴西郡 / 監軍使者 / 征東中郎将 / 太倉令 / 治中従事 / 帳下司馬 / 牧 / 東州兵 / 領 |
趙韙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/10 15:29 UTC 版)
趙韙(ちょう い、? - 201年)は、後漢の政治家・軍人。趙穎とも。本貫は益州巴西郡安漢県。『三國志』や『英雄記』および『華陽国志』に記載がある。
経歴
中平五年頃(188年)、劉焉が地方に野心を抱き益州牧に任じられると、太倉令であった趙韙は官を棄てて付き従った[1]。
興平元年(194年)に劉焉が死去すると、州の帳下司馬・趙韙と治中従事・王商らは劉璋が温和であるということで後継に建てた。この時、劉璋配下であった沈弥、婁発、甘寧らは荊州別駕・劉闔と結んで反乱を起こしたが、勝てず荊州に逃走した。趙韙は征東中郎将となり、荊州に攻め入って(巴西郡)胊䏰県に駐屯した[2]。翌年、巴郡の分割を建議し、巴、永寧、固陵の三つに分割された。
益州では南陽や三輔から来た数万家の避難民がおり、そこから得た兵を「東州兵」と名付けていたが、劉璋に威厳がなかったため東州人が横暴を働き、政令も行き届かず取り締まれなかったので地元民から怨嗟が募っていた。そこで趙韙は人心を得ているということで、事態の収拾を任せられた。
しかし、趙韙は劉璋がたびたびの諫言に従わないことを恨みに思い[3]、民の不満を扇動し、荊州に賄賂を贈って講和し、益州の豪族と密かに結んで建安五年(200年)に謀反を起こした。この反乱は蜀、広漢、犍為の三郡が呼応する大規模なものとなった。翌年[4]、劉璋の籠る成都城を包囲したが、東州人らが趙韙を恐れて命がけで戦ったため反乱軍は撃退された。その後、江州県まで追撃を受けると、趙韙の配下の龐楽、李異らの裏切りによって斬られた[5]。
脚注
参考資料
- 『華陽国志』
- 『三國志』
- >> 「趙韙」を含む用語の索引
- 趙韙のページへのリンク