劉焉
劉焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/22 01:01 UTC 版)
劉 焉(りゅう えん、? - 194年)は、中国後漢末期の政治家。字は君郎。荊州江夏郡竟陵県の人。子に劉範・劉誕・劉瑁・劉璋。『後漢書』と『三国志』蜀志に伝がある。
- ^ 高島俊男著『三国志きらめく群像』276頁によると、劉焉は章帝の皇子であった平春悼王の劉全の末裔だと推測されている。平春は江夏郡の地名である。
- ^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」の注によると、司徒の祝恬のことだという。
- ^ 『漢霊帝紀』
- ^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』によると、任岐が将軍を自称し、従事の陳超と共に反乱を起こしている。また、董卓が司徒の趙謙に命じて益州に侵攻し、それを迎撃に出た賈龍がかえって趙謙に説得されて、劉焉に叛いた事になっている。劉焉は反乱の鎮圧に益州西部にいたチベット系の青羌部隊を用いたとされている。趙謙が司徒になるのは董卓死後であるため、内容の真偽はともなく、趙謙の役職については正確ではない。
- ^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』によると、劉範ら三人は劉焉に援助を断られた董卓により、監禁されていた事があるという。
- ^ 『三国志』蜀志「穆皇后伝」によると、劉焉は後に劉備の妻となる穆皇后の相が、高貴な身分になる人のものだという評判を聞いて、子の劉瑁に娶らせたのだという。
- ^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『典略』によると、劉焉は仮病を使って劉璋を呼び寄せたという。
- ^ 『三国志』蜀志「許靖伝」が引く『益州耆旧伝』によると、韓遂・馬騰は関中で争乱を起こした時は、度々劉焉と連絡を取り合っていたという。
- ^ 『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』によると、劉焉は校尉の孫肇を援軍に出して、長安で敗れたという。
- ^ 『英雄記』によると、長安の朝廷は潁川の扈瑁を益州刺史に任命し、荊州別駕の劉闔と劉璋の将の沈彌・婁發・甘寧を叛かせ劉璋を攻撃させたが勝てず、彼等は荊州に逃亡した。劉璋は趙韙を荊州に侵攻させるため、朐に駐屯させたという
- ^ 実際に幽州牧となったのは、宗室(広義の皇族)であった宗正の劉虞である。また、時期は不明であるが陶謙が中平元年(184年)もしくは以前に幽州刺史から議郎に転じて、同年以降に発生した羌や韓遂の反乱鎮圧に派遣されたことが知られている。
劉焉(りゅうえん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 23:00 UTC 版)
「三国志 (北方謙三)」の記事における「劉焉(りゅうえん)」の解説
益州牧。後漢の宗室出身。当初は帝の側に使えていたが漢を見限り、益州で独立しようと図る。張魯の母に籠絡され、五斗米道の庇護者となる。
※この「劉焉(りゅうえん)」の解説は、「三国志 (北方謙三)」の解説の一部です。
「劉焉(りゅうえん)」を含む「三国志 (北方謙三)」の記事については、「三国志 (北方謙三)」の概要を参照ください。
劉焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)
「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「劉焉」の解説
※この「劉焉」の解説は、「三国志 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「劉焉」を含む「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事については、「三国志 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- >> 「劉焉」を含む用語の索引
- 劉焉のページへのリンク