趙謙
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趙 謙(ちょう けん、? - 192年)は、後漢末の人物。字は彦信。蜀郡成都県の人。祖父は趙戒。叔父は趙典。弟は趙温。妻は同郡の常洽の娘の常紀常。
生涯
184年に汝南太守のときに黄巾党と戦って、大敗した。189年に荀爽とともに董卓の長安遷都に反対したために罷免された[1]。
190年におなじく罷免された黄琬の後任として太尉となり、献帝が遷都する際に護衛した。後には車騎将軍に任命され、洛亭侯に封じられた。191年7月に馬日磾が太尉になると、趙謙は司隷校尉に任じられた。あるとき西域の車師王の近侍が、董卓の権威を傘に不法な行為をしたため、趙謙はこれを捕らえてこれを処刑した。趙謙によって寵愛する近侍が刑死したと聞いた董卓は激怒し、宣璠に命じて司隷校尉を解任させて財産を没収した[2]。
『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』によると、益州犍為太守の任岐が将軍を自称し、益州牧の劉焉に対して反乱を起こした際に、董卓がそれに乗じて趙謙に命じて益州に侵攻させたとされている。劉焉は校尉の賈龍に迎撃を命じたが、趙謙に説得されて賈龍は劉焉に叛いたとされている。
まもなく前将軍を拝命した。白波賊と戦って、戦功を挙げて郫侯に封じられた。
192年に董卓が呂布に暗殺され、王允が李傕に殺害されると、彼は王允の後任として司徒に任じられ、同時に尚書令を兼務した。
しかし、同年に病没し、忠と諡された。子の趙寧が後を継いだが、しかし、彼は官職を辞して郷里に帰って、『郷俗記』を著した。これを聞いた蜀郡太守の高躬からも評価され、彼を採り立てた。
逸話
清流派の謝弼と親交があり、彼が中常侍の曹節の従子である東郡太守の曹紹の讒言で、獄死した。趙謙は謝弼の冤罪を晴らすために、191年に上奏して曹紹の罪状を述べて、曹紹を逮捕投獄してこれを処刑させて棄市させた。
脚注
参考文献
趙謙(演:董祺明)
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「万暦首輔張居正」の記事における「趙謙(演:董祺明)」の解説
荊州知府。収賄に手を染め、私腹を肥やす悪徳官吏。元は一介の地方官吏だったが、張居正の父親・張文明に取り入るべく、広大で豊かな農地を贈賄し、更に常日頃から張家の人々を丁重に世話するなど、献身的に張家のために尽くし、結果として張文明から大いに気に入られ、その推挙を受けて、荊州知府という高位にまで出世した。だが後に、荊州巡税御史・金学曾の調査によって数々の悪事・不正が暴かれ、一転して窮地に追い込まれる。最後は、許従成の密命を受けた衛彪によって、毒酒を飲まされ殺害された(※このとき、金学曾も道連れにされそうになったが、毒酒に口を付けなかったので間一髪助かっている。)。
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