黄琬
黄琬は若くして父を失ったが、幼少より聡明であった。祖父黄瓊は魏郡太守となり、建和元年(一四七)正月の日蝕を目撃した。欠け具合はどれほどかと太后に下問され、どう答えるべきかを思案していると、当時七歳の黄琬が傍らにいて「どうして三日月ほどですとお答えしないのですか?」と言ったので、黄瓊はたいそう驚いた。そしてその言葉通りに言上し、黄琬を深く愛した。 のちに黄瓊が司徒になると、三公の孫だということで童子郎を拝命したが、病気を口実に就任せず、京師に名を知られた。そのころ司空の盛允は病気を患っていたので、黄瓊は黄琬に見舞いをさせた。ちょうど江夏郡から蛮民の叛乱について報告が届けられた。盛允が報告書を開いて読み終わると、黄琬をからかって「江夏は大国じゃが、蛮民が多くて士人が少ないんだのう」と言った。黄琬は両手を捧げて「蛮民が悪さを働くことにつきましては司空どのの責任でございます」と答え、裾を払って退出した。盛允は大いに目を見張った。 次第に五官中郎将まで昇進した。光禄勲陳蕃は彼を深く尊敬して厚遇し、相談を持ちかけることがたびたびあった。旧制では、光禄勲が三署の郎を推挙するとき、高い功績を挙げながら官位が据え置かれている者、才能徳行のとりわけ優れた者を茂才や四行としていたが、当時、権力者や富豪の子弟ばかりが私情によって推挙され、貧乏人や大志を抱く者たちは見捨てられていた。京師ではそれを「無能者が欲しければ光禄勲の茂才だ」と歌っていたのである。そこで黄琬・陳蕃は協力して志士を登用し、劉諄・朱山・殷参らが才能・行動によって推挙されたのである。 陳蕃・黄琬はそのことで権力者・富豪出身の郎たちに中傷され、その裁定が御史中丞王暢・侍御史刁韙に委ねられた。刁韙・王暢はかねて陳蕃・黄琬を尊敬していたので、彼らのことを検挙しなかった。ところが(帝の)左右の者たちがまた「あいつらは徒党を組んでおります」と陥れたので、王暢は連座して議郎に左遷され、陳蕃は免官となり、黄琬・刁韙はともに禁錮を命じられた。 黄琬は遠ざけられたまま二十年近くを過ごしたが、光和年間(一七八~一八四)の末期、太尉楊賜が「黄琬には混乱を払いのける才能がございます」と上書してくれたので、徴し出されて議郎となり、青州刺史への抜擢を経て、侍中に昇進した。中平年間(一八四~一八九)の初期、右扶風太守に出向し、徴し返されて将作大匠・少府・太僕を歴任、また予州牧となった。そのころ盗賊どもが州境で暴れまわっていたが、黄琬はこれを攻撃して平らげ、威信名声は大いに轟いた。その治績は天下の模範となり、関内侯に封ぜられる。 董卓が政権を握ると、黄琬は名臣として徴し出されて司徒となり、太尉に昇進、改めて陽泉郷侯に封ぜられた。董卓が長安遷都の計画を持ちかけると、黄琬は司徒楊彪とともに諫言し、退出してから「むかし周公が洛邑を経営して姫氏を安定させ、光武が東都を計画して漢朝を興隆させたのは、天の告げるところであり、神の喜ぶところであった。大事業はすでに完成されているのに、どうして軽挙妄動して四海を失望させることがあろう?」と反対論を述べた。人々は董卓が激怒するのを恐れ、黄琬が必ず殺害されるだろうと思い、強く諫めたが、黄琬は「むかし白公が楚で反乱を起こしたときは、屈廬は刃物を恐れず進みでたし、崔杼が斉で君主を殺したとき、晏嬰はその誓約を恐れなかった。私は不徳者であるが、古人の節義を真摯に慕うものである」と答えるばかりだった。 結局、黄琬は免官されたものの、董卓はそれでも彼が名誉恩徳のある古い氏族であることを尊重し、危害を加えようとはしなかった。のちに楊彪とともに光禄大夫を拝命し、西方へ遷都したとき司隷校尉へと転任、司徒王允とともに董卓誅殺を計画した。董卓の将李傕・郭汜が長安を攻め破ったとき、黄琬は逮捕され、牢獄に下されて死んだ。ときに五十二歳。 【参照】晏嬰 / 殷参 / 王允 / 王暢 / 郭汜 / 屈廬 / 黄瓊 / 崔杼 / 朱山 / 周公 / 盛允 / 刁韙 / 陳蕃 / 董卓 / 白公勝(白公) / 楊賜 / 楊彪 / 李傕 / 劉秀(光武) / 劉諄 / 梁太后 / 安陸県 / 魏郡 / 江夏郡 / 斉 / 青州 / 楚 / 長安県 / 扶風郡(右扶風郡) / 陽泉郷 / 予州 / 雒陽(洛邑) / 関内侯 / 郷侯 / 御史中丞 / 議郎 / 光禄勲 / 光禄大夫 / 五官中郎将 / 三公 / 侍御史 / 司空 / 四行 / 刺史 / 侍中 / 司徒 / 将作大匠 / 少府 / 司隷校尉 / 太尉 / 太守 / 太僕 / 童子郎 / 牧 / 茂才 / 郎 / 三署郎 / 日蝕 |
黄琬
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黄 琬(こう えん、141年 - 192年)は、中国後漢末期の人物。字は子琰[1]。曾祖父は黄香。祖父は黄瓊(黄琼)。荊州江夏郡安陸県の出身[2]。
生涯
幼少時に父を失い、祖父に養われた。三公の孫であるという理由で童子郎に選ばれ、都で名を知られるようになった[3][2]。
成長して五官中郎将となったとき、黄琬は陳蕃と共に政治の刷新を狙ったが失敗し、20年に亘り官界から追放された。光和年間末、楊賜の推薦で返り咲き、太僕などを歴任し、豫州牧となった[4][5]。
永漢元年(189年)、董卓が権力を握ると都に召還され司徒に、次いで太尉に任命された。しかし、董卓の長安遷都に反対し罷免された。後に光禄大夫として復帰し、さらに司隷校尉に転じた。王允・呂布らが董卓の暗殺を図ると、黄琬もこれに参画し暗殺を成功させた[6]。
しかし間もなく、旧董卓軍の李傕・郭汜らが長安を占拠して王允を殺害、呂布を追い出してしまう。この際に黄琬も李傕らに捕らえられ獄死した。享年52[7]。
時期は不明だが黄琬は太尉であった際に華佗を辟召により招聘しようとしたが華佗が招きを受けて官職に就くことはなかった[8]。
なお小説『三国志演義』では、黄奎という架空の息子が登場する設定となっている。
脚註
- ^ 『後漢書』校勘記(中華書局)の『文選』にある李善(唐の李邕の父)が引用する『後漢書』によると「公琰」。
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後漢書 卷六十一 左周黃列傳 第五十一 (中国語), 後漢書/卷61#孫 黃琬, ウィキソースより閲覧。 - 琬字子琰。少失父。早而辯慧。祖父瓊,初為魏郡太守,建和元年正月日食,京師不見而瓊以狀聞。太后詔問所食多少,瓊思其對而未知所況。琬年七歲,在傍,曰:「何不言日食之餘,如月之初?」瓊大驚,即以其言應詔,而深奇愛之。後瓊為司徒,琬以公孫拜童子郎,辭病不就,知名京師。
- ^ 『漢末英雄記』(王粲著)・『続漢書』(司馬彪著)によると、黄琬は同郷の劉璋の祖母の甥にあたり、同時に来敏の姉の夫でもあった。
- ^ 『三国志』「曹真伝」の裴松之の注に引用された『魏書』には、曹真の父曹邵は初平年間に、曹操が挙兵した時に呼応して兵を集め、曹操に従った。豫州牧黄琬が曹操を殺害しようとした際、曹操は難を逃れたが、曹邵は殺された、とある。但しこれは、189年中に豫州牧から司徒に遷っているという『後漢書』「献帝紀」の記述と矛盾する。
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後漢書 卷六十一 左周黃列傳 第五十一 (中国語), 後漢書/卷61#孫 黃琬, ウィキソースより閲覧。 - 後陳蕃被征,而言事者多訟韙,復拜議郎,遷尚書。在朝有鯁直節,出為魯、東海二郡相。性抗厲,有明略,所在稱神。常以法度自整,家人莫見墯容焉。琬被廢□幾二十年。至光和末,太尉楊賜上書薦琬有撥亂之才,由是征拜議郎,擢為青州刺史,遷侍中。中平初,出為右扶風,征拜將作大匠、少府、太僕。又為豫州牧。
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後漢書 卷六十一 左周黃列傳 第五十一 (中国語), 後漢書/卷61#孫 黃琬, ウィキソースより閲覧。 - 及董卓秉政,以琬名臣,征為司徒,遷太尉,更封陽泉鄉侯。卓議遷都長安,琬與司徒楊彪同諫不從。琬退而駁議之曰:「昔周公營洛邑以寧姬,光武卜東都以隆漢,天之所啟,神之所安。大業既定,豈宜妄有遷動,以虧四海之望?」時人懼卓暴怒,琬必及害,固諫之。琬對曰:「昔白公作亂於楚,屈廬冒刃而前;[一]崔杼弒君於齊,晏嬰不懼其盟。[二]吾雖不德,誠慕古人之節。」琬竟坐免。卓猶敬其名德舊族,不敢害。後與楊彪同拜光祿大夫,及徙西都,轉司隸校尉,與司徒王允同謀誅卓。
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後漢書 卷六十一 左周黃列傳 第五十一 (中国語), 後漢書/卷61#孫 黃琬, ウィキソースより閲覧。 - 及卓將李傕、郭汜攻破長安,遂收琬下獄死,時年五十二。
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魏書·方技傳 (中国語), 三國志/卷29#華佗, ウィキソースより閲覧。 - 華佗字元化,沛國譙人也,一名旉。遊學徐土,兼通數經。沛相陳珪舉孝廉,太尉黃琬辟,皆不就。
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