黄琬とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 三国志小事典 > 黄琬の意味・解説 

黄琬Huang Wan

コウエン
クワウヱン

141192
司隷校尉陽泉郷侯

字は子琰、または公琰江夏郡安陸の人。黄瓊の孫。

黄琬は若くして父を失ったが、幼少より聡明であった祖父黄瓊魏郡太守となり、建和元年一四七)正月日蝕目撃した欠け具合どれほどかと太后下問され、どう答えるべきかを思案していると、当時七歳の黄琬が傍らにいて「どうして三日月ほどですとお答えしないのですか?」と言ったので、黄瓊たいそう驚いた。そしてその言葉通り言上し、黄琬を深く愛した

のちに黄瓊司徒になると、三公の孫だということ童子郎を拝命したが、病気口実就任せず、京師に名を知られた。そのころ司空の盛允は病気患っていたので、黄瓊は黄琬に見舞いをさせた。ちょうど江夏郡から蛮民の叛乱について報告届けられた。盛允が報告書開いて読み終わると、黄琬をからかって江夏大国じゃが、蛮民が多くて士人少ないんだのう」と言った。黄琬は両手捧げて「蛮民が悪さを働くことにつきましては司空どのの責任でございます」と答え、裾を払って退出した。盛允は大い目を見張った

次第五官中郎将まで昇進した光禄勲陳蕃は彼を深く尊敬して厚遇し相談持ちかけることがたびたびあった。旧制では、光禄勲が三署の郎を推挙するとき、高い功績挙げながら官位据え置かれている者、才能徳行とりわけ優れた者を茂才や四行としていたが、当時権力者富豪の子弟ばかりが私情によって推挙され貧乏人大志を抱く者たちは見捨てられていた。京師ではそれを「無能者が欲しければ光禄勲茂才だ」と歌っていたのである。そこで黄琬・陳蕃協力して志士登用し、劉諄・山・殷参らが才能行動によって推挙されのである

陳蕃・黄琬はそのこと権力者富豪出身の郎たちに中傷され、その裁定御史中丞王暢侍御史刁韙に委ねられた。刁韙・王暢はかねて陳蕃・黄琬を尊敬していたので、彼らのことを検挙しなかった。ところが(帝の)左右の者たちがまた「あいつら徒党組んでおります」と陥れたので、王暢連座して議郎に左遷され陳蕃免官となり、黄琬・刁韙はともに禁錮命じられた。

黄琬は遠ざけられたまま二十年近く過ごしたが、光和年間一七八~一八四)の末期太尉楊賜が「黄琬には混乱払いのける才能ございます」と上書してくれたので、徴し出されて議郎となり、青州刺史への抜擢経て侍中昇進した中平年間一八四~一八九)の初期右扶風太守出向し徴し返され将作大匠少府太僕歴任、また予州となった。そのころ盗賊どもが州境暴れまわっていたが、黄琬はこれを攻撃して平らげ威信名声大い轟いた。その治績天下模範となり、関内侯封ぜられる

董卓政権を握ると、黄琬は名臣として徴し出され司徒となり、太尉に昇進改め陽泉郷侯に封ぜられた。董卓長安遷都の計画持ちかけると、黄琬は司徒楊彪とともに諫言し、退出してから「むかし周公洛邑経営して姫氏を安定させ、光武東都計画して漢朝興隆させたのは、天の告げるところであり、神の喜ぶところであった。大事業はすでに完成されているのに、どうして軽挙妄動して四海失望させることがあろう?」と反対論述べた人々董卓激怒するのを恐れ、黄琬が必ず殺害されるだろうと思い強く諫めたが、黄琬は「むかし白公が反乱起こしたときは、屈廬は刃物恐れず進みでたし崔杼が斉で君主殺したとき、晏嬰はその誓約恐れなかった。私は不徳者であるが、古人節義真摯に慕うものである」と答えるばかりだった。

結局、黄琬は免官されたものの、董卓はそれでも彼が名誉恩徳のある古い氏族であることを尊重し危害加えようとはしなかった。のちに楊彪とともに光禄大夫拝命し、西方遷都したとき司隷校尉へと転任司徒王允とともに董卓誅殺計画した董卓の将李傕郭汜長安攻め破ったとき、黄琬は逮捕され牢獄下されて死んだ。ときに五十二歳

参照晏嬰 / 殷参 / 王允 / 王暢 / 郭汜 / 屈廬 / 黄瓊 / 崔杼 / 山 / 周公 / 盛允 / 刁韙 / 陳蕃 / 董卓 / 白公勝(白公) / 楊賜 / 楊彪 / 李傕 / 劉秀光武) / 劉諄 / 太后 / 安陸県 / 魏郡 / 江夏郡 / 斉 / 青州 / / 長安県 / 扶風郡右扶風郡) / 陽泉郷 / 予州 / 雒陽洛邑) / 関内侯 / 郷侯 / 御史中丞 / 議郎 / 光禄勲 / 光禄大夫 / 五官中郎将 / 三公 / 侍御史 / 司空 / 四行 / 刺史 / 侍中 / 司徒 / 将作大匠 / 少府 / 司隷校尉 / 太尉 / 太守 / 太僕 / 童子郎 / 牧 / 茂才 / 郎 / 三署郎 / 日蝕


黄琬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/12 18:00 UTC 版)

黄 琬(こう えん、141年 - 192年)は、中国後漢末期の人物。子琰[1]。曾祖父は黄香。祖父は黄瓊(黄琼)。荊州江夏郡安陸県の出身[2]

生涯

幼少時に父を失い、祖父に養われた。三公の孫であるという理由で童子郎に選ばれ、都で名を知られるようになった[3][2]

成長して五官中郎将となったとき、黄琬は陳蕃と共に政治の刷新を狙ったが失敗し、20年に亘り官界から追放された。光和年間末、楊賜の推薦で返り咲き、太僕などを歴任し、豫州牧となった[4][5]

永漢元年(189年)、董卓が権力を握ると都に召還され司徒に、次いで太尉に任命された。しかし、董卓の長安遷都に反対し罷免された。後に光禄大夫として復帰し、さらに司隷校尉に転じた。王允呂布らが董卓の暗殺を図ると、黄琬もこれに参画し暗殺を成功させた[6]

しかし間もなく、旧董卓軍の李傕郭汜らが長安を占拠して王允を殺害、呂布を追い出してしまう。この際に黄琬も李傕らに捕らえられ獄死した。享年52[7]

時期は不明だが黄琬は太尉であった際に華佗辟召により招聘しようとしたが華佗が招きを受けて官職に就くことはなかった[8]

なお小説『三国志演義』では、黄奎という架空の息子が登場する設定となっている。

脚註

  1. ^ 『後漢書』校勘記(中華書局)の『文選』にある李善李邕の父)が引用する『後漢書』によると「公琰」。
  2. ^ a b  後漢書 卷六十一 左周黃列傳 第五十一 (中国語), 後漢書/卷61#孫 黃琬, ウィキソースより閲覧。  - 琬字子琰。少失父。早而辯慧。祖父瓊,初為魏郡太守,建和元年正月日食,京師不見而瓊以狀聞。太后詔問所食多少,瓊思其對而未知所況。琬年七歲,在傍,曰:「何不言日食之餘,如月之初?」瓊大驚,即以其言應詔,而深奇愛之。後瓊為司徒,琬以公孫拜童子郎,辭病不就,知名京師。
  3. ^ 漢末英雄記』(王粲著)・『続漢書』(司馬彪著)によると、黄琬は同郷の劉璋の祖母の甥にあたり、同時に来敏の姉の夫でもあった。
  4. ^ 三国志』「曹真伝」の裴松之の注に引用された『魏書』には、曹真の父曹邵初平年間に、曹操が挙兵した時に呼応して兵を集め、曹操に従った。豫州牧黄琬が曹操を殺害しようとした際、曹操は難を逃れたが、曹邵は殺された、とある。但しこれは、189年中に豫州牧から司徒に遷っているという『後漢書』「献帝紀」の記述と矛盾する。
  5. ^  後漢書 卷六十一 左周黃列傳 第五十一 (中国語), 後漢書/卷61#孫 黃琬, ウィキソースより閲覧。  - 後陳蕃被征,而言事者多訟韙,復拜議郎,遷尚書。在朝有鯁直節,出為魯、東海二郡相。性抗厲,有明略,所在稱神。常以法度自整,家人莫見墯容焉。琬被廢□幾二十年。至光和末,太尉楊賜上書薦琬有撥亂之才,由是征拜議郎,擢為青州刺史,遷侍中。中平初,出為右扶風,征拜將作大匠、少府、太僕。又為豫州牧。
  6. ^  後漢書 卷六十一 左周黃列傳 第五十一 (中国語), 後漢書/卷61#孫 黃琬, ウィキソースより閲覧。  - 及董卓秉政,以琬名臣,征為司徒,遷太尉,更封陽泉鄉侯。卓議遷都長安,琬與司徒楊彪同諫不從。琬退而駁議之曰:「昔周公營洛邑以寧姬,光武卜東都以隆漢,天之所啟,神之所安。大業既定,豈宜妄有遷動,以虧四海之望?」時人懼卓暴怒,琬必及害,固諫之。琬對曰:「昔白公作亂於楚,屈廬冒刃而前;[一]崔杼弒君於齊,晏嬰不懼其盟。[二]吾雖不德,誠慕古人之節。」琬竟坐免。卓猶敬其名德舊族,不敢害。後與楊彪同拜光祿大夫,及徙西都,轉司隸校尉,與司徒王允同謀誅卓。
  7. ^  後漢書 卷六十一 左周黃列傳 第五十一 (中国語), 後漢書/卷61#孫 黃琬, ウィキソースより閲覧。  - 及卓將李傕、郭汜攻破長安,遂收琬下獄死,時年五十二。
  8. ^  魏書·方技傳 (中国語), 三國志/卷29#華佗, ウィキソースより閲覧。  - 華佗字元化,沛國譙人也,一名旉。遊學徐土,兼通數經。沛相陳珪舉孝廉,太尉黃琬辟,皆不就。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「黄琬」の関連用語

黄琬のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



黄琬のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
むじん書院むじん書院
Copyright (C) 2025 mujin. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの黄琬 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS