董卓政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 22:20 UTC 版)
霊帝が死去すると、何進は妹(何太后)の子であった劉弁(少帝弁)を帝位に就けた。王允は何進に招かれて河南尹(首都洛陽を含む郡の長官)となり、劉弁が即位すると尚書令に任じられた。 その後、何進が宦官たちに殺されると、董卓がそれに代わって政権を握った。190年、董卓から司徒に選任され政務を執ることとなった。 しかしその後、董卓は暴政により少帝を殺害したり、洛陽を破壊して長安への遷都を強行したことで人望を失った。また董卓は、張温を袁術と内通している者であると誣告し鞭で打ち殺させ、縁談を断った未亡人を棒で殺害させた。さらに百官の前で投降した兵の舌をえぐり抜き、手足を切断させている最中に飲食するなど、様々な狂態が相次いだ。このような相次ぐ異常事態に憂慮した王允は、友人の黄琬や部下の士孫瑞と話し合い、董卓暗殺計画を練って実施の準備を始めた。 結果的に暗殺を引き受けたのは、王允と同じ并州出身で董卓の寵臣となっていた呂布であった。呂布は董卓に信頼され、その養子となり身辺警護を勤めていたが、ある時に董卓の機嫌を損ねて手槍を投げつけられたことがあった。また董卓の侍女と密通しており、この事がばれないかと恐れていたという。そのような折に呂布の相談を聞いた王允は、自身の暗殺計画を打ち明け、呂布を説き伏せて仲間に引き入れた。192年4月、董卓が宮殿に参内した際、これを呂布に殺害させた。
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