董卓暗殺計画に加担
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:36 UTC 版)
荀攸は孝廉に推挙され、南陽の陰修が潁川太守であった時代に荀彧・郭図・鍾繇らとともに官吏として登用されたという(「鍾繇伝」が引く謝承『後漢書』)。 大将軍何進は政治の実権を握ると、海内の名士20名を招聘したが、荀攸もその中に含まれていた。荀攸は何進の求めに応じ、黄門侍郎となった。 何進死後、董卓が政治の実権を握ると、荀攸はその専横を見て憤り、議郎の鄭泰・何顒・侍中の种輯・越騎校尉の伍瓊らと共に董卓の暗殺を図る。しかし事前に発覚して、荀攸は何顒と共に董卓に投獄され、死刑が決められた。何顒は憂いのあまり獄死してしまったが、荀攸は言葉も食事も泰然自若していた。しかし、その死刑執行前に董卓が王允らに暗殺されたため、荀攸は助け出された。 その後、優秀な成績で推挙され、任城国の相となったが辞退し、自ら望んで蜀郡太守となった。しかし、益州において独立を画策していた益州牧の劉焉が、既に交通路を断っていた為、任地まで辿り着くことができず荊州に留まった。
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