郭図とは? わかりやすく解説

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郭図Guo Tu

カクト
クワクト

(?~205
都督

字は公則《後漢書袁紹伝》。潁川の人《荀彧伝》。

南陽の陰脩は潁川太守になると賢明英俊たる者を役職就けた五官掾張仲を方正に、功曹鍾繇主簿荀彧・主記掾張礼・賊曹掾祐・孝廉荀攸・計吏郭図を官吏として推挙し朝廷輝かせた《鍾繇伝》。

初平元年一九〇)、冀州韓馥が同郡の荀彧呼び寄せた荀彧宗族連れて冀州行ったとき、すでに袁紹韓馥官位奪い取っていた。袁紹上賓の礼をもって荀彧待遇し荀彧の兄荀諶、同郡の辛評・郭図もみな任用された。しかし荀彧袁紹が大事をなすことができないとみて、翌二年に立ち去った荀彧伝》。郭嘉もまた袁紹拝謁していたが、辛評・郭図に「袁公周公の士にへりくだるのを真似ておいでだが、人を任用する機微知らぬ。ともに天下大問題を片付け霸王の業を完成させるのは難しかろう」と告げて去っている《郭嘉伝》。

おそらく郭図は荀彧とともに韓馥招かれていたのだろう。韓馥説得して冀州牧の座を袁紹に譲らせたのは郭図であるが、荀彧到着したときには既に袁紹立っていた。郭図の方が一足早く到着していたことになる。

同二年、袁紹張導・郭図・高幹らに韓馥説得させ、冀州袁紹に譲らせている《臧洪伝・後漢書同伝》。

興平二年(一九五)冬、天子が曹陽で追い詰められていると聞き沮授天子迎え入れて鄴を都とすべし主張した。郭図は淳于瓊とともに漢室衰退して日が長く今さら復興させようとしても困難ではありますまいか。いま天子お迎えすれば行動するたびに上表することになりますが、それを遵守すれば権威軽くなり、それに違背すれば命令背いたことになります。よい計略ではございません」と反対した。もともと帝が即位したのも袁紹本意ではなかったので、結局見送ることになった袁紹伝注・後漢書同伝》。

郭図が使者となって天子のもとに遣わされ帰ってくると、天子迎えるべきと袁紹説得したという説があり《袁紹伝》、どちらが正しいか分からない沮授当初より天子奉迎計画していたため、ここでは沮授計略として採用する

建安五年(二〇〇)、袁紹大軍催して許を攻撃せんとしたとき、沮授田豊は「まず黎陽進出してゆっくり黄河南岸漸進し、艦船建造し兵器修繕するとともに精鋭騎兵分遣して辺境荒らさせて彼らを不安に陥れます。我ら十全の力をもってすれば、三年のうちに平定できるでしょう」と主張したが、郭図は審配とともに兵書十倍なら囲み、五倍なら攻め互角なら全力で戦うとあります。いま明公神武河北強兵をもって曹氏討伐しており、その勢い掌を返す如きもの。今すぐ取らねば、のちのち狙いにくいことになりましょうぞ」と反対した《袁紹伝・後漢書同伝》。

沮授混乱救って暴虐を伐つのを義兵多勢当てにして精強を頼むのを驕兵と言います。義は無敵ですが、驕った方は先に滅びます。曹操天子奉迎して許都宮殿建てているのですから、いま軍勢こぞって南進するのは義に背いているのです。それに勝利を決する策は強弱にあるのではない。曹操軍令行き届き士卒はよく訓練されている。公孫瓚が手をこまねいて包囲受けたのとは違いますぞ。いま万全の策を棄てて名分のない軍を起こしたことは、密かに公のために危惧されるところです」、郭図ら「武王が紂を討伐したのを不義とは言わぬましてや曹操軍勢差し向けるのを名分なしと言うか!それに公の軍は精強で、臣は尽力し将兵憤怒して全力出しろうとしている。時機に応じて速やかに事業完成しようとしないのは、熟慮による失敗です。そもそも天の与うるを取らざればかえって咎を受くもの。これこそ越が霸を唱え、呉が亡んだ所以です。監軍沮授)の計略堅牢さを求めるものですが、時機察知して変化する計略ではありません」。袁紹はこれを採用した袁紹伝・後漢書同伝》。

郭図はことについでに沮授讒言した。「沮授内外総監して威勢三軍震わせております。つけ上がってきたならどうやって制御なさるのですか?そもそも臣下主君同意すれば栄え主君臣下同意するようになれば亡ぶもので、これは黄石公の嫌うところです。ましてや外部軍勢統御させているのですから内部干渉させてはなりませぬ」。袁紹沮授を疑うようになり、監軍職を分割して三都督とし、沮授および郭図・淳于瓊それぞれ一軍づつ仕切らせることにした《袁紹伝・後漢書袁紹伝》。

臣下主君等しくなければ栄え主君臣下等しければ亡ぶ」あるいは単に「臣下主君等しくなれば亡ぶ」とする説がある。主語入れ替えがあることから上を正しいとみた。郭図の指摘にはなんら不審な点はなく、いたって正当な発言と言えるだろう。郭図には讒言者のイメージが強いが、実際にはこの沮授の件と張郃との二例だけである。しかもどちらの説も疑わしい。郭図は讒言していないと結論したい。

二月袁紹は郭図・淳于瓊顔良派遣して白馬包囲させたが、顔良曹操に斬られると、袁紹黎陽から黄河渡って延津の南に塁壁築いた。このとき沮授病気口実渡河しようとしなかったので、袁紹許可下さず、彼を恨んでその手兵を郭図の手編入した《武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。

白馬包囲顔良単独によるものとの説があるが《袁紹伝》、これは顔良敗北予知したという沮授美化するためのものとみて採用しない

袁紹淳于瓊をやって兵糧輸送車護送させていたが、曹操は彼が烏巣にいると聞いて奇襲企てた袁紹の将張郃言った。「曹公の軍勢精強ですから行けば必ず淳于瓊破ります。淳于瓊破られれば将軍事業おしまいですぞ」、郭図「張郃計略はまずい。奴ら本営攻撃する越したことはなく、情勢からいって必ず引き返します。これぞ救わずして自ずと解くというものであります」、張郃「曹公の陣営堅固であり、これを攻撃してもきっと陥落させられますまい。もし淳于瓊らが生け捕りになったら、吾らも残らず捕虜になってしまいましょうぞ」。袁紹はただ軽騎兵だけを派遣して淳于瓊を救わせ、そして重装兵でもって曹操陣営攻撃したが、陥落させられなかった。曹操果たし淳于瓊らを打ち破り袁紹軍潰滅した。郭図は恥ずかしく思い、また改め張郃讒言した。「張郃は軍の敗北喜び、吐く言葉不遜です」。張郃恐怖し、そこで曹操のもとに身を寄せた張郃伝》。

裴松之指摘するように、『張郃伝』では袁紹軍敗北のあと張郃降服したとし、『武帝紀』『袁紹伝』では張郃らが降服したため袁紹軍敗北したとする矛盾がある。張郃経歴美化するため、『張郃伝』側が作り話をしたという見方が有力《張郃集解》。よって郭図の讒言存在しなかったことになる。

袁紹官渡敗北すると、審配の子二人曹操捕らえられた。審配と仲が悪かった孟岱は、蔣奇に意を含めて袁紹伝えさせた。「審配専政できるほどの位にあり、宗族多くて軍勢も強い。しかも子息二人南方にいるのです。必ず叛意抱きましょうぞ」、と。郭図・辛評もまたその通りだと主張した袁紹はかくて孟岱監軍とし、審配後任として鄴を守らせたのである。しかし護軍逢紀審配と仲が悪かったが、彼のために取りなしてやって審配復帰させた《後漢書袁紹伝》。

七年夏、袁紹薨去したが、跡継ぎ決めていなかった。逢紀審配袁尚親しく、かねて驕慢・贅沢さを袁譚疎まれており、辛評・郭図はみな袁譚親しく審配逢紀とは仲が悪かった人々袁譚年長ということ擁立した思っていたが、審配らは袁譚立てば辛評らに危害を受けるだろうと恐れ、ついに袁紹遺命偽作して袁尚後継者立てた袁譚到着して後継者になれず、車騎将軍自称して黎陽屯した。これにより袁譚袁尚仲違いした《袁紹伝・後漢書袁紹伝》。

曹操黄河渡って黎陽攻撃すると、袁譚袁尚危急告げた袁尚審配を鄴の守備残し、自ら袁譚救援し力を合わせて曹操対峙した。九月から翌年二月まで城下大戦続き袁譚袁尚敗退した武帝紀・袁紹伝・後漢書同伝》。曹操軍諸将勝利乗じて攻め込もう主張したが、郭嘉が「袁紹二人の子愛して嫡子立てなかった。郭図・逢紀が彼らの謀臣となっており、そのうち抗争が始まるに違いない追い詰めれば助け合うだろうが、泳がせれば争いの心が生ずるだろう」と言うので、曹操南方引き揚げた《郭嘉伝》。

袁譚は「我が軍甲冑精巧でないため曹操負けたのだ。いま曹操軍撤退しようとして兵士どもは帰郷の念にかられている。彼らが渡河終えぬうちに包囲すれば大潰滅させられるぞ。この機会失ってはならん」と袁尚告げたが、袁尚は彼を疑い軍勢を貸すことも甲冑換えやることもしなかった。郭図・辛評激怒する袁譚告げた。「先公袁紹)が将軍を外に出して弟を先にしたのは、みな審配差し金ですぞ」。袁譚その通りだと思いそのまま軍勢率いて袁尚攻め、外門において戦ったが、敗北して南皮帰還した後漢書袁紹伝》。

郭図は言った。「いま将軍国土小さく軍勢少なく兵糧は底を突いて勢力も弱い。顕甫袁尚)が来れば長く戦うことはできませんぞ。愚考するに、曹公を呼び出して顕甫攻撃させるがよろしいでしょう。曹公が来ればまず鄴を攻めるはず。顕甫救援戻れば将軍軍勢率いて西進し、鄴以北をみな獲得することができます。もし顕甫敗北してその軍勢逃亡してくれば拾い集めて曹公と対峙することもできましょう。曹公は兵糧遠方頼っており、兵糧が続かねば必ず自分から逃走します。さすれば趙国以北はみな我ら領有となり、やはり曹公と対峙する充分です」。袁譚ははじめ受け入れなかったが、後になって聞き入れた。郭図は曹操への使者として辛毗推薦した辛毗伝》。

荊州劉表は、袁兄弟仲違いしていると聞き和解の手紙を王粲に書かせた。「変事は辛・郭より起こされ災禍同胞もたらされたと聞いております」、と《後漢書袁紹伝》。また審配袁譚手紙書き、「どうして凶悪な臣下郭図なぞに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉媚びへつらわせ、ご親好混乱させるのですか」と告げ後漢書袁紹伝》、あなたのために郭図を取り除きたいのだと言った袁紹伝》。袁譚その手紙を受け取ってしょんぼりとし、城郭に登って泣いた。しかし郭図に拘束され、たびたび矛先交えていたため、結局戦闘は止まなかった《袁紹伝》。

『三国志』袁紹伝では「凶悪な臣下」を逢紀こととするが、こちらの方が原文に近いようだ袁紹集解》。

九年十二月曹操平原進出して袁譚討伐し、その軍門戦おうとしたが、袁譚出撃せず、夜中南皮へと逃走した袁譚清河流れ前にして屯した。翌年正月曹操はこれを急襲した袁譚出撃ようとしたが、なかなか軍勢集合しなかったため破られた。こうして袁譚・郭図らは斬られ、その妻子処刑された《後漢書袁紹伝》。

参照】陰脩 / 殷紂王(紂) / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 王粲 / 郭嘉 / 韓馥 / 顔良 / 公孫瓚 / 高幹 / 黄石公 / 周公旦周公) / 周武王武王) / 荀彧 / 荀諶 / 荀攸 / 淳于瓊 / 蔣奇 / 審配 / 沮授 / 鍾繇 / 辛毗 / 辛評 / 曹操 / 張郃 / 張導 / 張礼 / 田豊 / 祐 / 逢紀 / 孟岱 / 劉協天子) / 劉表 / 烏巣 / 潁川郡 / 越 / 延津 / 外門 / 河北 / 官渡 / 冀州 / 許県許都) / 鄴県 / 荊州 / 呉 / 黄河 / 清河 / 曹陽亭 / 趙国 / 南皮県 / 南陽郡 / 白馬県 / 平原郡 / 黎陽県 / 監軍 / 計吏 / 功曹 / 孝廉 / 五官掾 / 護軍 / 車騎将軍 / 主記掾 / 主簿 / 賊曹掾 / 太守 / 都督 / 方正 / 牧 / 上賓之礼


郭図

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/23 16:46 UTC 版)

郭図
後漢
都督
出生 生年不詳
豫州潁川郡
死去 建安10年(205年
冀州勃海郡南皮県
拼音 Guō Tú
公則
主君 袁紹袁譚
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郭 図(かく と、? - 205年)は、中国後漢時代末期の政治家、武将。公則[1]豫州潁川郡の人。

正史の事跡

初期の事跡

潁川郡の計吏であったが、太守の陰脩から荀彧荀攸鍾繇らと共に官吏として推挙され、当時の朝廷を輝かせた[2]。その後、同郡の荀諶辛評らと共に袁紹に仕えた。同郡の郭嘉は袁紹から去る時、辛評と郭図に袁紹の欠点を告げたという。

初平2年(191年)、郭図は荀諶・張導・高幹らと共に韓馥を説得し、冀州を袁紹に譲らせた。

興平2年(195年)、沮授献帝を鄴に迎えるよう進言すると、郭図は淳于瓊と共に反対した[3]。袁紹は郭図を使者として献帝の下へ派遣し、帰還した郭図は献帝を迎えるよう袁紹に勧めたが、袁紹は受け入れなかった[4]。もともと献帝が即位したことが袁紹の本意ではなく、そのため結局見送られることになったという[5]

建安4年(199年)、沮授と田豊が、曹操と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は審配と共に短期決戦戦略の採用を主張した。すると袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図が、監軍(袁紹軍総司令官の地位に当たる)の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言したため、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命されることとなった。

官渡の戦い

建安5年(200年)2月、官渡の戦いが始まると、郭図は淳于瓊・顔良と共に白馬に駐留する劉延を攻撃した。しかし曹操軍の荀攸の計略により、顔良・文醜の両将を喪失するなど苦戦した。沮授が病気を口実に黄河を渡ろうとしなったので、袁紹はこれを恨んで沮授の兵を郭図に編入した。

同年10月、袁紹は淳于瓊に命じて烏巣で兵糧を守備させていたが、曹操は許攸からこの情報を知ると烏巣急襲を図った。張郃は「曹操の軍勢は強いので必ず淳于瓊を破りますが、そうなったらお終いです。急いで救援すべきです」と進言したが、郭図は反対して「曹操軍の本陣を攻撃すれば、曹操は引き返すでしょう。そうすれば救援せずとも解決します」と主張した。張郃は「曹操軍の本陣は堅固で陥落させることはできません」と反論した。結局袁紹は両方の意見を中途半端に採用し、軽騎兵によって烏巣を救援させ、張郃と高覧には重装兵を率いさせ曹洪が守る本陣を攻撃させた。しかし烏巣への救援は間に合わず、淳于瓊らは曹操軍に撃ち破られ、烏巣の兵糧庫も破壊されてしまった。

『三国志』魏書張郃伝によれば、このとき郭図が責任追及を恐れて張郃のことを讒言したため、張郃は止む無く曹操に降伏することになったという。しかし『三国志』魏書武帝紀や袁紹伝によれば、張郃らが淳于瓊の敗北を聞いて降伏したため、袁紹軍は総崩れになったとある。裴松之が張郃伝の注で指摘するように、張郃伝と他の伝では時系列に矛盾が生じている。『三国志』魏書荀攸伝では、張郃らの降伏を怪しむ曹洪に、荀攸は「張郃は自分の計略が採用されなかった事を怒って降伏したのです。あなたはどうして疑うのです」と言っている。

この敗戦で、審配の子二人が曹操軍に捕らえられた。孟岱・蔣奇・郭図・辛評は、審配の勢威が強大すぎること、子の状況から反乱しかねないことを主張した。このため審配は失脚し、袁紹は孟岱を監軍として鄴を守らせた。後に審配は逢紀の弁護により復権した。

袁氏内紛と最期

建安7年(202年)に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男袁譚を後継者に推戴した。これに対し、郭図・辛評と不仲であった審配・逢紀が三男袁尚を推戴したため、これが袁氏の内紛につながってしまう。翌8年(203年)、郭図と辛評は「袁譚が後継者になれなかったのは審配の差し金である」と袁譚を後押し、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して、平原に追い込まれ苦境に陥った。

このため郭図は袁譚に、「曹操と同盟を結び、曹操と袁尚が戦っている隙に勢力を拡大します。袁尚が敗北すればその残党を吸収でき、曹操は遠征軍で兵糧が続かず一度帰還するので、そうなれば曹操と対峙できます」と進言した。袁譚は拒否したが、後になって受け入れた。袁譚は郭図が推薦した辛毗を使者として派遣し、曹操と同盟を結んだ。曹操は袁尚を攻撃し、を攻め落とし審配を処刑した[6]

曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚は冀州諸郡を次々と攻略し、袁尚の残党を吸収するなど、郭図の進言通りに勢力を盛り返した。しかし、それが原因で曹操から盟約違反と非難され、両軍は再び交戦することになった。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて包囲をうけた。袁譚は出撃して曹操軍を攻撃して大いに怯ませるが、最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された[7]。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。

内紛における郭図

審配が忠義を尽くして壮絶な最期を遂げたことと、官渡の戦いにおける郭図の所業の悪さが原因で、一般には袁氏内紛でも郭図が悪者とされがちである。

しかし、袁紹による明確な後継者指名がなかったにもかかわらず、審配らは袁紹の生前の寵愛を理由に袁尚を推し、『後漢書』袁紹伝によれば袁紹の遺命まで偽造したとされる。また同伝によれば、衆目は年長の袁譚後継支持であったとしている。

もっとも、その後の対応では、郭図も審配憎しで袁氏兄弟の対立を煽っており、袁譚に袁尚への先制攻撃を嗾けるなど、依然として問題行動が多かった。

『後漢書』袁紹伝では、露骨に名指しで書かれている。荊州劉表が、袁氏内紛に際し王粲に和解の手紙を書かせたが、そこには「変事は辛評・郭図より起こされ、災禍は同胞にもたらされたと聞いております」と記されている。また審配も袁譚に手紙を書き、そこにも「どうして凶悪な臣下郭図などに蛇足を描かせ、ねじ曲がった言葉で媚びへつらわせ、ご親好を混乱させるのですか」と記している。

三国志演義

小説『三国志演義』では無能な参謀として描かれており、袁氏を衰亡させたように扱われている。

官渡の戦いの前哨戦で、関羽に文醜を討ち取られた際には、劉備を処刑するよう審配と共に袁紹に進言するが、劉備に巧言で逃れられている。また、劉備が劉表の下へ向かうと申し出ると、それを阻むよう袁紹に諫止したが、容れられていない。しかし結局、劉備は戻って来なかったため、袁紹がこれを討伐しようとすると、それよりも孫策と同盟して曹操を討つよう進言し、受け入れられている。

その後の官渡戦や袁氏内紛については、史実とほぼ同様の展開である。ただ、南皮の戦いでは楽進に弓で射られ、城の堀に転落して死んだことになっている。

参考文献

  • 范曄後漢書』列伝64上袁紹伝上、列伝64下袁紹伝下、付・袁譚伝
  • 陳寿三国志』魏書巻6袁紹伝、付・袁譚袁尚伝 魏書巻1武帝紀 魏書巻11王修伝 魏書巻17楽進伝
  • 三国演義

脚注

  1. ^ 九州春秋
  2. ^ 謝承『後漢書』
  3. ^ 三国志』魏書袁紹伝注『献帝伝』、『後漢書』袁紹伝
  4. ^ 三国志』魏書袁紹伝
  5. ^ 袁紹は政敵の董卓が擁立した献帝を否定し、劉虞擁立を目論むなどしていた
  6. ^ 『三国志』魏書袁紹伝注に引く『漢晋春秋』によると、後継者争いが激化し、曹操の河北進攻が強まった時、審配は袁譚に信書を送り、郭図の誅殺を求めたが、袁譚に拒否されている。『三国志』魏書袁紹伝注に引く『典略』によると、袁譚は審配の信書を読んで涙したが、実質的に影響力のあった郭図に逆らうことができなかったとされる。
  7. ^ 『英雄記』には曹操が作った「董卓の歌」を載録している。その辞には、「徳行が欠けることがなくても、変事が起こって平常を保つことは難しい。鄭康成(鄭玄)は酒盛りのうちに、地面に伏して息絶え、郭景図(郭図)は桑畑で命を終わった」とある。

郭図(かくと)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 06:28 UTC 版)

王者の遊戯」の記事における「郭図(かくと)」の解説

袁紹軍軍師刎頸之友将軍顔良

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