袁氏内紛と最期
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建安7年(202年)5月、袁紹死後に三男袁尚を審配と共に支持し、長男袁譚を支持する郭図・辛評らの一派と対立した。『後漢書』袁紹伝によれば、審配と逢紀は、袁紹の遺命を偽造してまで袁尚の後継を強行したとされる。これにより、袁紹が一代で築き上げた袁氏勢力を分裂させることにつながってしまった。 この骨肉の内紛を見て、同年9月に曹操が侵攻して来た。袁尚は袁譚に命じてこれを迎撃させたが、袁譚が増援を頼んでも、袁尚は増援を送らなかった。このため曹操軍に大敗し怒った袁譚は、袁尚が自分の目付役として付けていた逢紀を殺害した。 後に審配が郭図の誅殺を求める信書を袁譚に送っているが、この信書の中では、逢紀(『後漢書』では郭図。)をも「凶臣」と糾弾して、袁譚が逢紀を処刑したことを賞賛し、また、袁尚も逢紀の妻子を処刑したとしている。 曹操軍の荀彧は、「逢紀は、向こう見ずで自分のことしか考えない」と批評した。
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袁氏内紛と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:18 UTC 版)
建安7年(202年)に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男袁譚を後継者に推戴した。これに対し、郭図・辛評と不仲であった審配・逢紀が三男袁尚を推戴したため、これが袁氏の内紛につながってしまう。翌8年(203年)、郭図と辛評は「袁譚が後継者になれなかったのは審配の差し金である」と袁譚を後押し、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して、平原に追い込まれ苦境に陥った。 このため郭図は袁譚に、「曹操と同盟を結び、曹操と袁尚が戦っている隙に勢力を拡大します。袁尚が敗北すればその残党を吸収でき、曹操は遠征軍で兵糧が続かず一度帰還するので、そうなれば曹操と対峙できます」と進言した。袁譚は拒否したが、後になって受け入れた。袁譚は郭図が推薦した辛毗を使者として派遣し、曹操と同盟を結んだ。曹操は袁尚を攻撃し、鄴を攻め落とし審配を処刑した。 曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚は冀州諸郡を次々と攻略し、袁尚の残党を吸収するなど、郭図の進言通りに勢力を盛り返した。しかし、それが原因で曹操から盟約違反と非難され、両軍は再び交戦することになった。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて包囲をうけた。袁譚は出撃して曹操軍を攻撃して大いに怯ませるが、最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。
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