袁氏内紛と最期とは? わかりやすく解説

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袁氏内紛と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:16 UTC 版)

逢紀」の記事における「袁氏内紛と最期」の解説

建安7年202年5月袁紹死後三男袁尚審配と共に支持し長男袁譚支持する郭図辛評らの一派対立した『後漢書』袁紹によれば審配逢紀は、袁紹遺命偽造してまで袁尚後継強行したとされる。これにより、袁紹一代築き上げた袁氏勢力分裂させることにつながってしまった。 この骨肉内紛見て同年9月曹操侵攻して来た。袁尚袁譚命じてこれを迎撃させたが、袁譚増援頼んでも、袁尚増援を送らなかった。このため曹操軍大敗し怒った袁譚は、袁尚自分目付役として付けていた逢紀殺害した。 後に審配郭図誅殺求め信書袁譚送っているが、この信書の中では、逢紀『後漢書』では郭図。)をも「凶臣」と糾弾して袁譚逢紀処刑したことを賞賛し、また袁尚逢紀妻子処刑したとしている。 曹操軍荀彧は、「逢紀は、向こう見ず自分のことしか考えない」と批評した

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袁氏内紛と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:18 UTC 版)

郭図」の記事における「袁氏内紛と最期」の解説

建安7年202年)に袁紹死去すると、郭図辛評と共に長男袁譚後継者推戴した。これに対し郭図辛評不仲であった審配逢紀三男袁尚推戴したため、これが袁氏内紛つながってしまう。翌8年203年)、郭図辛評は「袁譚後継者になれなかったのは審配差し金である」と袁譚後押し袁尚先制攻撃仕掛けさせた。しかし袁尚反撃敗北して平原追い込まれ苦境陥ったこのため郭図袁譚に、「曹操同盟を結び、曹操袁尚戦っている隙に勢力拡大します。袁尚敗北すればその残党吸収でき、曹操遠征軍兵糧続かず一度帰還するので、そうなれば曹操対峙できます」と進言した。袁譚拒否したが、後になって受け入れた袁譚郭図推薦した辛毗使者として派遣し曹操同盟結んだ曹操袁尚攻撃し、鄴を攻め落とし審配処刑した曹操袁尚戦っている隙に、袁譚冀州諸郡を次々と攻略し袁尚残党吸収するなど、郭図進言通り勢力盛り返した。しかし、それが原因曹操から盟約違反非難され両軍は再び交戦することになった建安10年205年)春、袁譚郭図南皮追い込まれ包囲をうけた。袁譚出撃して曹操軍攻撃して大いに怯ませるが、最終的に敗北し郭図袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図妻子一緒に処刑されたという。

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