袁祖銘を支えて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/01 00:21 UTC 版)
同年4月、貴州省での実権を一時掌握した谷正倫に随従し、王天培は貴陽に戻った。この頃、北京政府の支持を受けた袁祖銘が貴州奪取を図り「定黔軍」を組織して貴陽に向けて進軍してくる。王は袁と元から友誼が存していたため、密かに袁と結んだ上、さらに同僚の彭漢章をも説得して袁に付かせた。そして王・彭が袁に内応すると、他の谷配下の部隊も次々と袁に寝返り、谷は下野して湖南省へ逃亡している。この貢献により、王は袁から黔軍第2師師長に任命された。 1923年(民国12年)、唐継虞率いる滇軍(雲南軍)が貴州へ進攻してきたため、袁祖銘は貴陽を退出する。王天培は孫文の広州軍政府への合流を主張したが、袁はこれを聞かず、四川省での勢力拡大を図る。王もやむなくこれに従い、重慶近隣の江津、銅梁に駐屯した。王は匪賊討伐などにより現地の民心掌握に成功している。 その後勢力を盛り返した袁祖銘は、雲南の唐継尭と和解して貴陽に戻ることになり、王天培もこれに従った。1925年(民国14年)2月、王天培は貴州督弁に任命され、翌年6月までその地位にあった。しかし王天培は実際には貴陽には駐留せず、弟の王天錫と共に故郷の天柱を中心とする貴州東南部に割拠した。省政は、貴州省長に任命された同僚の彭漢章に委ねられたが、王兄弟は彭からほぼ自立して活動している。
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