袁紹との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 21:18 UTC 版)
初平2年(191年)、黄巾賊の残党30万が勃海郡の郡境付近から侵入した。公孫瓚は2万の兵を率いてこれを迎撃。東光の南において包囲してくる敵軍を悉く撃破すると、黄巾賊は輜重車を捨てて敗走、清河を渡り逃げようとする黄巾賊に猛烈な追撃をかけ、数万の兵と将を討ち取ると共に大量の捕虜と軍需物資を手に入れた。 袁術とその部将の孫堅は豫州を巡り袁紹と対立していた。あるとき、袁紹の部将の周昂が陽城の孫堅の陣地を奪取した報復として、袁術の元に出向いていた公孫越は袁術の指示で孫堅と共に周昂を攻撃するが勝てず、公孫越は戦死してしまう(陽城の戦い)。公孫瓚はこの知らせを聞き激怒し磐河まで出兵したという。 公孫瓚の勢いに恐れを抱いた袁紹は、その従弟の公孫範に勃海太守の印綬を送り、勃海太守にした上で講和を図った。しかし、公孫範は勃海郡の郡兵を手に入れると、青州や徐州の黄巾賊の勢力を吸収して公孫瓚の軍勢に加わった。勢いに乗った公孫瓚は上奏して袁紹の非を鳴らすと共に(『典略』)、田楷・厳綱・単経といった自分の息のかかった人物を青州・冀州・兗州の刺史に任命し、郡や県の長官も勝手に任命した。 界橋まで進軍した公孫瓚を袁紹は広川に陣を敷いて迎え撃った。公孫瓚軍の布陣は、中央に歩兵3万余が方陣を敷き、その左右を騎兵1万余が固めるというものであった。袁紹軍の布陣は先陣の麴義が楯を構えた兵士八百人と一千張の強弩隊を率い、その後に袁紹自身が率いる数万の歩兵が続いた。羌族の(騎兵)戦術を熟知した麴義の奮闘により、公孫瓚軍は部将の厳綱が捕虜になるなど大敗して渤海に敗走した(界橋の戦い)。 その後、崔巨業(中国語版)らが率いる数万の袁紹軍によって故安城が包囲されるもののこれを守り切り、撤退する袁紹軍を公孫瓚・田楷ら3万の軍勢が追撃し、巨馬水において大いに打ち破った。公孫瓚は勝ちに乗じてまたも南進し、各郡県を猛烈な勢いで攻め落とし進んでくると、袁紹は数万の軍勢を派遣して2年余りの長期戦と化すが、最後は公孫瓚の敗北という形で決着し、公孫瓚は公孫範と共に薊へ逃げ帰った(『後漢書』「公孫瓚伝」)。 公孫瓚は同時期に袁術の求めに応じて、劉備を高唐に、単経を平原に、陶謙を発干に駐屯させたが、すべて袁紹の命令を受けた曹操に打ち破られたという(「武帝紀」)。公孫瓚は劉備を別部司馬に任命して、劉備に趙雲を随行させて青州方面の田楷の援軍に赴かせている(蜀志「先主伝」、蜀志「趙雲伝」)。後に劉備は徐州の陶謙の元に援軍に赴いたまま、豫州刺史に推挙されて戻らなかったが、その部下の田豫が帰郷して後に公孫瓚に仕えている(蜀志「先主伝」、魏志「陶謙伝」、魏志「田豫伝」)。趙雲も兄の喪に服するために公孫瓚の元を離れている(蜀志「趙雲伝」が引く『趙雲別伝』)。 薊には州庁があり、劉虞の城の東南に公孫瓚は小さい城を造営し、そこを拠点とした。劉虞と公孫瓚との敵意は次第に高まっていったという。
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