別方面での戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 18:27 UTC 版)
荊州の劉表は袁紹に味方していたが、南陽の張繡が賈詡の進言で曹操に寝返り、江夏の黄祖が曹操に味方した孫策に敗れ、長沙・零陵・桂陽では桓階の進言で張羨が三郡を挙げての大規模な反乱を起こすなど、身動きの取れない状況に陥っていた。劉表配下の韓嵩・劉先・蒯越は曹操に味方することを進言したが、劉表は受け入れなかった。さらに曹操は衛覬を益州に派遣して、劉璋に劉表を攻撃させようとしたが、こちらは道中の交通が途絶していたので失敗している。 孫策は当初曹操に恭順して劉表を攻撃していたが、突如北方への進出を企図して曹操と敵対した。しかし広陵の陳登にこれを阻まれる内、郭嘉の予測通り孫策に恨みを持つ者の手で横死した。孫策の後を継いだ孫権は、張昭・張紘らの働きによって再び曹操に恭順した。 袁紹と共に公孫瓚を滅ぼした鮮于輔は、田豫の進言で曹操に寝返り、曹操から幽州六郡を任された。烏桓司馬の閻柔も曹操に帰順した。 曹操陣営の南方を預かっていた李通は、袁紹と劉表の両方から調略をかけられたが、断固として拒否した。多くの者が袁紹と内通するなか、李通の郡だけが動揺しなかったという。 曹操陣営の東方を預かっていた臧覇は、何度も青州へ攻め込んだので、曹操は袁紹との戦いに専念することができた。 曹操陣営の西方を預かっていた鍾繇は、馬騰と韓遂を味方につけて関中を安定させ、曹操に馬二千頭余りを送った。 盧弼は『三国志集解』で、李通が任された淮汝の地、臧覇が任された青徐の地、鍾繇が任された関中の地は、決して失うことのできない重要な地方だったと評価している。
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