道中
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「大般涅槃経 (上座部)」の記事における「道中」の解説
道中、釈迦は一本の樹の根本で休み、アーナンダに水を汲んでくるよう頼む。アーナンダは、近くの川は今500台の車が通って濁っていると説明。3度頼む釈迦に押されてアーナンダがその川に行くと、水が澄んでいて驚く。 ちょうどそこに、アーラーラ・カーラーマの弟子プックサが通りかかる。プックサは釈迦に、「500台の車」が通っても、深い瞑想に入っていてそれを感知しなかった、師アーラーラ・カーラーマの偉大さを述べる。釈迦は、自分はかつてアートゥマー村の籾殻の家に滞在していた際、農夫2人と4頭の牛が死ぬほどの「雷鳴・落雷」が近くであっても、深い瞑想に入っていてそれを感知しなかったと述べる。プックサは驚嘆し、釈迦への帰依を誓う。 プックサは従者に指示し、金色の一対の絹衣を持ってこさせ、釈迦に献上する。釈迦は1つを自分に、もう1つをアーナンダに与えるよう指示。釈迦はプックサに「法に関する講話」を説き、教え、励まし、喜ばせた。そしてプックサは帰っていった。 アーナンダが自分にかけられた金の衣を釈迦にかけると、その衣は輝きを失ったように見えた。釈迦は、修行完成者が悟りを達成した夜と、涅槃の境地に入る夜、この二時は、皮膚の色が清らかで輝かしくなるのだと、死が近いことを示唆する。そして、今夜、最後の更に、クシナーラーのウパヴァッタナにあるマッラ族の沙羅林の中、二本並んだ沙羅樹(沙羅双樹)の間で、自分は死ぬと予告する。 カクッター川を渡り、マンゴー樹の林に着いて休み、釈迦はアーナンダに、鍛冶工の子チュンダについて述べる。チュンダは、自分の供物のせいで釈迦が死んだと批難され、後悔の念を持つかもしれないが、釈迦の最後の供物をしたチュンダには利益・功徳があると言って、後悔の念が取り除かれなくてはならないと述べる。そして、「与えるものには功徳が増す」と感興の言葉を述べる。
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道中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 15:33 UTC 版)
少数だが、酒井忠次、石川数正、本多忠勝の歴戦の武将もいる家康配下が、落ち武者狩りの一揆を脅したり、時には家康が籠絡用に家臣に配分した金品を与えたりして通過した。大浜に到着した家康を迎えた松平家忠は、一行が雑兵200人ほどを討ち取ったという話を日記に記している。 家康主従には、堺見物の案内役であった織田家中の長谷川秀一、西尾吉次、それと家康とともに上洛していた穴山信君の一行も同行していた。堺に偶然に居合わせた佐久間安政は土地鑑があり家康に加勢し逃走を助けたという。長谷川秀一は一行脱出経路の決定や大和国(現在の奈良県)、近江国の国衆への取り次ぎを行うなど伊賀越えの成功に貢献し、安全圏の尾張国熱田まで家康一行に同行して逃げ、無事窮地を脱した。吉次は、無事に伊賀越えを成し遂げた後そのまま家康の家臣になった。他方、多額の金品を所持して家康らと距離を置いていた穴山信君は一揆の襲撃により、切腹したとも家康と別行動を取ったところを殺害されたとの2説ある。 また、伊勢国から三河国大浜までの船を手配して、家康や供廻の帰還を助けた伊勢商人の角屋七郎次郎秀持は、慶長5年9月10日(1600年10月16日)、家康より「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中、いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」と喜ばれ、廻船自由の特権を与えられた。
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