道中の苦難
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1893年(明治26年)3月20日、郡司以下、約80人の報效義会員は5隻のボートで千島へと旅立った。当初郡司は、航海日数33日、気象などのために航行不能の日が33日、それに余裕の10日を加えた計76日もあれば目的地へ到達できると想定していたが、しかし実際はこの予定通りには全くならなかった。5月10日、一行は全行程の約1/6の地点である釜石港付近にいたが、当初の予定であればこの日には、全行程の約2/3の地点に当たる択捉島に着いているはずであった。当初予定からこれほどの遅れを出した理由として 例年よりも荒天続きで、しかも向かい風である北風の吹く日が多かった。 小さなボートのため接岸航海が必至だったにもかかわらず、房総半島以北の太平洋岸、特に三陸海岸についての調査が足りなかった。 国民的な人気の故に寄港した各地で歓迎会などが開かれ、それを断ることもできなかったため時間を浪費した。 などの理由があげられる。もっとも、各地での歓迎については郡司一行にとって悪影響のみがあったわけでもなく、たとえば気仙沼では、地元の篤志家から帆船「鼎浦丸」の寄贈を受けた。また、仙台では、押川方義の紹介により、牧師の高橋伝五郎が同行することになっている。拓殖事業には宗教者が絶対に必要だと考えていた(しかし、拓殖参加に名乗りを上げる宗教者はそれまで一人も居なかった)郡司にとって、これは渡りに舟であった。 そのような中、5月22日に郡司一行にとって大きな事件が起きる。この日八戸の鮫港を出航した郡司たちは下北郡東通村白糠の沖で暴風雨にあい、ボートのうち1隻が遭難、乗組員10人が全員死亡したのであった。さらに27日には、別行程で千島へ向かっていた鼎浦丸が暴風雨によって鮫村(現・八戸市)大久喜沖で遭難し、これも乗組員9人が全員死亡した。その上、28日には郡司が負傷し、八戸病院に入院することとなる。この負傷については、公式発表では部下の田原畩吉による過失傷害となっているが、鮫で郡司が宿泊していた旅館の人間の証言などから、郡司の自殺未遂説もあり、詳細は不明である。
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