道中の苦難とは? わかりやすく解説

道中の苦難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:55 UTC 版)

郡司成忠」の記事における「道中の苦難」の解説

1893年明治26年3月20日郡司以下、約80人の報效義会員は5隻のボート千島へと旅立った当初郡司は、航海日数33日、気象などのために航行不能の日が33日、それに余裕10日加えた76日もあれば目的地到達できる想定していたが、しかし実際はこの予定通りには全くならなかった。5月10日一行は全行程の約1/6地点である釜石港付近にいたが、当初の予定であればこの日には、全行程の約2/3地点に当たる択捉島着いているはずであった当初予定からこれほどの遅れを出した理由として 例年よりも荒天続きで、しかも向かい風である北風の吹く日が多かった小さなボートのため接岸航海必至だったにもかかわらず房総半島以北太平洋岸、特に三陸海岸についての調査足りなかった。 国民的な人気故に寄港した各地歓迎会などが開かれ、それを断ることもできなかったため時間浪費した。 などの理由あげられる。もっとも、各地での歓迎については郡司一行にとって悪影響のみがあったわけでもなく、たとえば気仙沼では、地元篤志家から帆船「鼎浦丸」の寄贈受けたまた、仙台では、押川方義紹介により、牧師高橋五郎同行することになっている拓殖事業には宗教者絶対に必要だ考えていた(しかし、拓殖参加名乗りを上げる宗教者それまで一人も居なかった)郡司にとって、これは渡りに舟であったそのような中、5月22日郡司一行にとって大きな事件起きる。この日八戸港を出航した郡司たちは下北郡東通村白糠の沖で暴風雨にあい、ボートのうち1隻が遭難乗組員10人が全員死亡したであった。さらに27日には、別行程で千島向かっていた鼎浦丸が暴風雨によって鮫村(現・八戸市大久喜沖で遭難し、これも乗組員9人が全員死亡した。その上28日には郡司負傷し八戸病院入院することとなる。この負傷については、公式発表では部下田原畩吉による過失傷害となっているが、郡司宿泊していた旅館人間の証言などから、郡司自殺未遂説もあり、詳細不明である。

※この「道中の苦難」の解説は、「郡司成忠」の解説の一部です。
「道中の苦難」を含む「郡司成忠」の記事については、「郡司成忠」の概要を参照ください。

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