穴山信君(あなやま のぶきみ) 1541~1582
穴山信君
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穴山 信君(あなやま のぶただ[注釈 2] )/武田 信君(たけだ のぶただ[注釈 3])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人。穴山氏7代当主。
注釈
- ^ 同寺には信君の一周忌に、土佐光吉筆の伝承を持つ寿像が残る[4]。
- ^ 「信君」の読みに関して従来は「のぶきみ」と読み、異説として江戸時代の『駿河志料』巻四一に「ノブタダ」と訓じるとする説があったが、裏付けとなる史料が確認されていなかった。一方、近年では駿河臨済寺などに住した鉄山宗鈍が記した法語録『鉄山集』に「ノブタヽ」の読みが記されており、信君の偏諱を受けたと思われる重臣・万沢君泰、君基もそれぞれ「タヽヤス」「タヽモト」とあることが指摘され、信君は「のぶただ」と読まれたことが確定された[6]。
- ^ 鉄山宗純起草の「江尻城鐘銘」には賢郡守武田信君(タケタノフタ々)とある[7]
- ^ なお、信友は永禄3年の桶狭間の戦い後の今川家との同盟確認など駿河との外交に従事している。
- ^ 信君の「江尻領」支配について、黒田基樹は庵原郡において朝比奈信置領が存在することからこれを否定し[14]、柴辻俊六は穴山氏の領主権を検討することで江尻領は穴山氏の支配が及ぶ支城領であったとしている[15]。また、小川隆司は江尻領を武田氏の直轄領としている[16]。
- ^ 『信長公記』巻十五「家康公和泉堺ヨリ引取被退事」条に「生害」とある、ただし角川ソフィア文庫版『信長公記』人名中索引pp.484-485では、これをもう1つの言葉の意味の「殺害」だと解釈している。
出典
- ^ a b c d e f g h i 町田是正「(甲斐守護)武田・(甲斐河内領)穴山両氏の対身延山政策」『棲神 : 研究紀要』第62号、身延山短期大学学会、1990年3月、53-73頁、doi:10.15054/00000855、ISSN 0910-3791、NAID 120006521875。
- ^ a b c 柴 2022, p. 271.
- ^ 柴 2022, p. 272.
- ^ 宮島新一『武家の肖像』至文堂〈日本の美術385〉、1998年、35頁。ISBN 978-4-784-33385-1。
- ^ 上田正昭・津田秀夫・永原慶二・藤井松一・藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』(株式会社三省堂、2009年) 43頁。
- ^ 平山 2011b, p. 104
- ^ 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年、p458
- ^ a b 秋山敬「穴山氏の武田親族意識」『武田氏研究』創刊号、1988年。/所収:秋山敬『甲斐武田氏と国人』高志書院、2003年。
- ^ 平山 2011a, p. 117.
- ^ 平山 2011a, p. 118.
- ^ 平山 2011a, p. 119.
- ^ 平山 2011a, pp. 119–120.
- ^ 『戦国遺文 武田氏編』1382-85号文書
- ^ 黒田基樹「武田氏の駿河支配と朝比奈信置」『武田氏研究』14号、1995年。
- ^ 柴辻俊六「武田・穴山氏の駿河支配」『武田氏研究』21号、1999年。
- ^ 小川隆司「穴山信君の「江尻領」支配について」『武田氏研究』23号、2001年。
- ^ 平山 2011a, p. 152.
- ^ 平山 2011a, pp. 154–155.
- ^ 平山 2011a, p. 154.
- ^ a b c 平山 2011a, p. 156
- ^ 平山 2011a, p. 158.
- ^ 谷口克広『信長と家康 清須同盟の実体』学研、2012年、243-244頁。ISBN 978-405405213-0。
- ^ 柴裕之「徳川領国下の穴山武田氏」『戦国大名武田氏の役と家臣』岩田書院、2011年。/所収:柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-884-4。
- ^ 柴 2022, p. 282.
- ^ 『家忠日記』天正十年六月四日条
- ^ 『東照宮実紀』巻三「家康伊賀越之難」条
- ^ 柴 2022, p. 283.
- ^ 矢田俊文「戦国期甲斐国の権力構造」『日本史研究』201号、1979年。
穴山信君(あなやま のぶきみ)
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「センゴク」の記事における「穴山信君(あなやま のぶきみ)」の解説
通称は梅雪斎不白。武田一門衆筆頭で河内・江尻領主。勝頼と昌幸が推し進める新体制によって領内の権益が脅かされる事を危惧しており、徳川家康と密約を交わす。徳川家に降る代わりに家康から命の保障と武田家新当主の地位を確約され、織田家が侵攻してきた際に混乱に乗じて質となっていた妻子を奪還した事で勝頼に反旗を翻す。家康を仲介に早期に寝返っていた事もあり戦後は所領安堵・加増されている。
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穴山信君
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