信玄・勝頼期の活動とは? わかりやすく解説

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信玄・勝頼期の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:48 UTC 版)

穴山信君」の記事における「信玄・勝頼期の活動」の解説

甲陽軍鑑』に拠れば永禄4年1561年)の第四次川中島の戦いにおいては信玄本陣守ったという。戦後武田家中では信玄嫡男武田義信による謀反発生する義信事件)。『甲陽軍鑑』では事件永禄7年1564年7月出来事としているが、永禄8年1565年6月義信とその側近である長坂曽根氏二宮美和神社太刀奉納していることから、実際に永禄8年7月出来事であった考えられている。義信事件三国同盟維持派の義信今川氏との同盟破棄する信玄派の間の対立構図考えられているが、『甲斐国志』に拠れば身延過去帳根拠永禄9年1566年)に信君の弟・穴山信嘉(信邦、彦八郎)が自害したことを記しており、義信事件と関係があるとも考えられている。当主である信君立場不明であるが、穴山家中においても内訌存在していたとも言われる武田氏信玄後期駿河国遠江国への侵攻行い織田徳川勢力と対峙するが、この駿河遠江侵攻において信君活動見られる武田氏永禄11年1568年)に駿河侵攻開始するが、信君侵攻に際して内通試みた今川家臣や徳川氏との取次務めている。翌永禄12年1569年)には、富士氏籠城する大宮城葛山氏元と共に攻めている。その後駿府占領した武田氏対し相模国後北条氏三河国徳川氏今川救援のために出兵すると、同年4月武田方は一時甲斐へ撤兵する。この際信君興津横山城において籠城し、万沢氏や臣従した望月氏に対して知行与え在地支配試みている。 駿河第二次侵攻経て武田領国化されるが、信君山県昌景後任として江尻城代となり、支城としての江尻領」を形成したという。 天正3年1575年5月21日行われた織田徳川連合軍との長篠の戦いでは武田信豊小幡信貞と共に中央布陣する。長篠の戦いでは多く武田重臣奮戦して戦死しているが、信君穴山に関して諸記録戦闘の様子記したものが見られず、穴山衆の多く戦後に無事帰還している。『甲陽軍鑑』『甲陽軍鑑末書』では、信君長篠合戦において積極攻勢に出なかったと記しており、信君決戦反対たとする記録見られる長篠合戦敗退した武田勝頼信濃国逃れる戦後処理を行い同年6月2日甲府帰還した。『甲陽軍鑑』において、信濃北部海津城に在城していた武田家臣・春日虎綱高坂昌信)は敗戦の報を知ると信濃国駒場において勝頼を迎え五箇条の献策行ったという。虎綱は五箇条の献策において相模後北条氏との婚姻による甲相同盟強化や、戦死した重臣子弟奥近習取り立てなどを進言し、第五武田信豊穴山信君切腹進言したという。『甲陽軍鑑』では虎綱が信君信豊切腹求めた詳細記していないが、勝頼は北条との同盟除いて、虎綱の献策退けたという。

※この「信玄・勝頼期の活動」の解説は、「穴山信君」の解説の一部です。
「信玄・勝頼期の活動」を含む「穴山信君」の記事については、「穴山信君」の概要を参照ください。

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