信玄の最期と遺言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)
信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈する(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検の時に喀血が再発したとも)など持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。 元亀4年(1573年)4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で、信玄は死去した。享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿監物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。 辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。
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