武田信玄とは?

たけだ‐しんげん【武田信玄】

[1521~1573]戦国時代武将。名は晴信。信玄法名。父信虎を廃して甲斐(かい)の守護となり、信濃一円を制し、上杉謙信対立数度に及び川中島合戦。のち、京都進出企て三方ヶ原徳川家康を破り、三河に入ったが、陣中病死。「信玄家法甲州法度)」の制定信玄堤の名で知られる治水工事など、領国経営にも尽くした。

新田次郎による長編歴史小説昭和40年(1965)から昭和48年1973)まで、「歴史読本」誌にて連載昭和44年1969)から昭和48年1973)にかけて、「風の巻」「の巻」「火の巻」「山の巻」の全4冊を刊行昭和63年1988放送NHK大河ドラマ原作としても知られる。

武田信玄の画像

武田信玄

作者檀一雄

収載図書戦国名将
出版社徳間書店
刊行年月1988.5
シリーズ名徳間文庫

収載図書時代小説ベスト・セレクション 9 乱世勝者敗者戦国小説
出版社講談社
刊行年月1994.11

収載図書決戦 川中島傑作時代小説
出版社PHP研究所
刊行年月2007.3
シリーズ名PHP文庫


武田信玄

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら秘本三十人伝
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


武田信玄

作者海音寺潮五郎

収載図書武将列伝戦国揺籃
出版社文藝春秋
刊行年月2008.4
シリーズ名文春文庫


武田信玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 14:34 UTC 版)

武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将甲斐守護大名戦国大名甲斐源氏嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。晴信通称太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。1915年大正4年)11月10日従三位を贈られる[3]




注釈

  1. ^ 『甲陽軍鑑』では幼名「太郎」に加え「勝千代」とも呼ばれたとされる。
  2. ^ 福島勢の侵攻・信玄出生に関しては『高白斎記』『王代記』ともに『山梨県史』資料編資料編6中世3上(県内記録)など。
  3. ^ 信玄の幼名は確実な史料では「太郎」であるが、『甲陽軍鑑』によればこの時の勝利に因み「勝千代(かつちよ)」とも名付けられたという。信玄は後世に英雄視されていることから出生伝説もつくられた。『甲陽軍鑑』や『武田三代記』などによれば、信玄誕生の折、産屋の上に一条の雲がたなびき白旗の風に翻るように見えたが、それが消えた時、一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息している時、曾我時致が自分の子になる夢を見て、その時に信玄が生まれたとされている。
  4. ^ 信虎追放に関しては『勝山記』や『塩山向岳禅庵小年代記』など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役や凶作に際しての重税など「悪行」を原因としていることから、『甲斐国志』による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。『甲陽軍鑑』では追放の原因を不和とし、晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、天文7年(1538年正月元旦祝いの時、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。平山優は隣国の経済制裁(路次封鎖)や凶作による食料の高騰が、大飢饉のあった天文10年に深刻化したのを原因として国内の「代替わり徳政」を求める声に晴信が対応したとする。一方で信虎期の甲斐国衆は信昌・信縄期の内紛をきっかけとして今川氏や諏訪氏などの隣国の大名の傘下に入っており、甲斐一国を平定しようとすると国衆の救援を名目とする隣国との対外戦争や経済制裁は避けられなかった側面があるとして、それらを単純な信虎の「悪行」とみなすことは出来ないとしている[6]
  5. ^ 信虎期からの外交方針の転換については、晴信が官途名を「左京大夫」から「大膳大夫」に改称していることにも象徴されていると指摘される[7]
  6. ^ 晴信は天文10年6月に信虎を追放し家督を相続しているが、同年5月の海野平の戦いで小県を追われた海野棟綱は、信濃の隣国である上野に拠する関東管領上杉憲政を頼った。同年7月に憲政は信濃佐久郡へ侵攻し、当時の諏訪領主であった諏訪頼重は、同盟相手である武田・小県郡村上氏へ断りをせず、独断で上杉方と和睦して、所領の分割を行っている(『神使御頭之日記』)。晴信の諏訪侵攻はこの翌年に行われていることから、諏訪侵攻の背景には信濃・上野地域における外交情勢が関係していると考えられている[8]
  7. ^ 勝山記』によれば晴信は小田井原で討ち取った約3,000人の首級を夜のうちに志賀城の周りに打ち立てる。志賀城の城兵はこれを見て戦意を阻喪し、8月10日正午に外曲輪、深夜には二の曲輪に火を掛け城兵を追い詰め、翌11日正午頃に志賀城は陥落。笠原清繁を甲斐衆の萩原弥右衛門が、高田憲頼を諏訪衆の小井弖越前守が討ち取り、城兵三百余が戦死した。笠原清繁の妻は小山田信有が貰い受けた。さらに残った女子供と奉公の男は人質として2貫文から10貫文という法外な値を要求し、大半は黒川金山の坑夫や娼婦奴婢として人身売買されたという。
  8. ^ なお、『勝山記』天文24年条に拠ればこの時、鉄砲300挺、弓800張が動員されたとしており、武田氏の合戦においてはじめて鉄砲の使用が確認される記事として注目されている。
  9. ^ 鴨川達夫は「神田孝平氏所蔵文書」に含まれた足利義輝宛の手紙を根拠に、信濃守護補任が数年遡る可能性を指摘している[10]
  10. ^ 『戦武』 - 664号。なお『甲陽軍鑑』では出家時期を天文20年2月とするが、文書上からは否定されるほか、出家時期を策彦周良宛の手紙(『山梨県史』資料編5、二六一七)を根拠に、永禄元年12月とする説も提示されている[11]
  11. ^ ただし、天文年間後期(小田井原の戦い以降)には甘楽郡の上野市河氏や国峯小幡氏は既に武田氏に帰属している[14]
  12. ^ 武田氏の外交を錯綜させた原因の一つとして、当時武田氏に従属しながら織田氏とも結んで斎藤氏に反抗し、更に今川氏の勢力圏である三河の加茂郡・設楽郡への進出を止めようとしなかった美濃遠山氏の独自行動に振り回される形になっていたのも一因と考えられる。また、下条氏など一部の信濃国衆も以前より美濃に進出して信玄もその所領を安堵していたことから、信玄としては斎藤氏の封じ込めに参加せざるを得なくなっていた[16]
  13. ^ 義信事件の経緯は不明であるが、永禄8年10月15日には義信傅役の飯富虎昌が処刑[18]、永禄10年10月19日には甲府東光寺に幽閉されていた義信が自害しており、事件後には領国の動揺を沈静化させるためであると考えられている文書が発給されている。嫡男義信は正室が今川氏真妹で武田家においても親今川派の人物であったと考えられており、義信事件の背景には今川氏との外交関係を巡る武田家内部の事情が関係していると考えられている[19]
  14. ^ 駿河侵攻の経緯については第一次駿河侵攻を参照。
  15. ^ 武田氏の領国拡大過程において、天文23年の南信地方伊那郡制圧において、東美濃国衆遠山氏が武田方に帰属しており、この頃から尾張隣国である美濃斎藤氏との緊張関係が発生している。弘治2年4月には斎藤氏と信長の抗争が勃発し、武田氏は遠山氏を介して美濃情勢に介入しており、このころから織田氏との外交関係がもたれていたと考えられている。
  16. ^ 元亀2年、信玄は甲相同盟を背景に大規模な遠江・三河への侵攻を開始したとされているが、近年では元亀2年の三河侵攻は根拠となる文書群の年代比定の誤りが指摘され、これは勝頼期の天正3年の出来事であった可能性も考えられている[22][23]
  17. ^ 信長は甲越和与の調停中で武田との友好的関係は保たれており、元亀3年の軍事行動は手切の通告がなされない突然のものであったと考えられている。また、義昭が信長の討伐を決意したのは信玄の甲府進発後とする説もある。
  18. ^ 元亀3年の軍事行動の経緯については西上作戦を参照。
  19. ^ 信玄の死因に関しては、侍医御宿監物書状(『戦武』 - 2638号)にみられる持病の労咳肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』による胃癌若しくは食道癌による病死説が有力である。江戸時代には新井白石藩翰譜』において三河野田城攻城における狙撃が元で死去したとする説を記しているほか、近代には地方病として蔓延した日本住血吸虫病に死因を求める見解も生まれている。
  20. ^ 山県昌景のこと。
  21. ^ 信玄没後百五十回忌に吉里が奉納した。
  22. ^ なお同論文では、像主が畠山徳栄であると共に、切り取られたという賛の筆者が徳栄だった可能性を指摘している。
  23. ^ なお同論文は、近年の武田氏研究を総括し、今後の課題を述べている。

出典

  1. ^ 武田信玄 役 & 家康の母 役 はこの人!”. 日本放送協会. 2018年1月8日閲覧。
  2. ^ a b 勝山記』『山資』6所載による。
  3. ^ 官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  4. ^ 「武田信昌」『日本人名大辞典』講談社。
  5. ^ 『高白斎記』に拠る。「信」は武田氏の通字
  6. ^ 平山優『武田信虎 覆される「悪逆無道」説』戎光祥出版<中世武士選書・42>、2019年 ISBN 978-4-86403-335-0 p.249-263・354-356.
  7. ^ 秋山敬「武田氏の国人被官化過程と政権意識」『甲斐武田氏と国人』(高志書院、2003)
  8. ^ 平山優 『川中島の戦い』 学習研究社、2002年。  (上巻) ISBN 4059011266 (下巻) ISBN 4059011347
  9. ^ 小川雄「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢-武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として」(初出:『武田氏研究』47号(2013年)/『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P287-292.
  10. ^ 鴨川達夫『日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏山川出版社、2011年、57-60頁、ISBN 978-4-634-54843-5
  11. ^ 鴨志田智啓「武田信玄呼称の初見文書について」 『戦国史研究』60号、2010。鴨川達夫『日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』山川出版社、2011、60頁
  12. ^ a b c d 平山 2002, p. 154[出典無効]
  13. ^ 平山 2002, p. 155[出典無効]
  14. ^ 黒田基樹 「天文期の山内上杉氏と武田氏」、柴辻俊六編 『戦国大名武田氏の役と家臣』 岩田書院、2012年。ISBN 978-4-87294-713-7 /所収:黒田基樹『戦国期 山内上杉氏の研究』岩田書院、2013年。ISBN 978-4-87294-786-1
  15. ^ 西上野侵攻については、柴辻俊六「武田信玄の関東計略と西上野支配」『戦国大名武田氏領の支配構造』。
  16. ^ 小川雄「一五五〇年代の東美濃・奥三河情勢-武田氏・今川氏・織田氏・斎藤氏の関係を中心として」(初出:『武田氏研究』47号(2013年)/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P284-304.
  17. ^ 丸島和洋 「信玄の拡大戦略 戦争・外交・同盟」、柴辻俊六編 『新編武田信玄のすべて』 新人物往来社、2008年。ISBN 9784404035141 
  18. ^ 丸島和洋「高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』」『武田氏研究』第34号、2006年。
  19. ^ 義信事件については平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』(山梨県韮崎市教育委員会、2001年)、丸島 (2008)
  20. ^ 「甲越和与」の経緯については丸島和洋「甲越和与の発掘と越相同盟」『戦国遺文武田氏編 月報』6
  21. ^ 柴辻俊六「越相同盟と武田氏の武蔵侵攻」『戦国期武田氏領の展開』
  22. ^ 鴨川達夫『武田信玄と勝頼』〈岩波新書〉、2009年。
  23. ^ 柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」『武田氏研究』第37号、2007年。
  24. ^ 柴辻俊六「戦国大名自筆文書の考察-武田信玄を事例として-」『山梨県史研究』第5号、1997年。
  25. ^ 黒田基樹「武田信玄と詩歌会・連歌会」『山梨県史』通史編2中世
  26. ^ 平山優「武田信玄の人間像」 『戦国遺文月報』武田氏編第3巻、2003
  27. ^ a b c d e 柴辻(2006)、p.135[出典無効]
  28. ^ a b c d 平山 2006, p. 64
  29. ^ 柴辻(2006)、p.134[出典無効]
  30. ^ a b 平山 2006, pp. 65-66
  31. ^ a b c d e f 平山 2006, p. 66
  32. ^ a b c 平山 2006, p. 65
  33. ^ a b 平山 2006, p. 67
  34. ^ 『山梨県史 通史編2 中世』、p.339
  35. ^ 柴辻(2006)、p.136[出典無効]
  36. ^ 宮本義己「知られざる戦国武将の「健康術と医療」」『歴史人』8巻9号、2017年。
  37. ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 3』講談社、2003年。
  38. ^ 黒田基樹『戦国大名と外様国衆』文献出版、1997年、134頁。ISBN 4-8305-1192-3
  39. ^ 狩野探信(狩野探幽の長男)筆『武田信玄画像』 山梨・大泉寺蔵、絹本著色、正徳5年(1715年)。柳沢吉里筆 『武田信玄画像』 山梨・恵林寺蔵(武田信玄公宝物館保管展示)、絹本著色、甲州市指定文化財、享保8年(1723年[注釈 21]
  40. ^ 石川博 「信玄伝説 由緒と図像」(『よみがえる武田信玄の世界 山梨県立博物館開館記念特別展』図録、山梨県立博物館、2006年)
  41. ^ 例えば、東京大学史料編纂所所蔵の模本(画像)など。
  42. ^ 藤本正行『武田信玄像の謎』吉川弘文館歴史文化ライブラリー 206〉、2006年。
  43. ^ 落合謙暁「土佐家伝来の伝足利義政像について」『日本歴史』2012年9月号、日本歴史学会、 31頁。[注釈 22]
  44. ^ 松嶋雅人「長谷川等伯─信春時代における諸問題」『東京国立博物館紀要』43号、2007年。
  45. ^ 柴辻俊六「最近の武田氏研究と信濃」『信濃』第66巻第11号、2014年、 815頁。[注釈 23]
  46. ^ 信玄公宝物館(2019年4月13日閲覧)。
  47. ^ 甲府市武田氏館跡(やかたあと)歴史館(平成31年4月5日オープン)甲府市ホームページ(2019年4月13日閲覧)。





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