武田信春とは? わかりやすく解説

武田信春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:26 UTC 版)

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武田信春
時代 南北朝時代 - 室町時代前期
生誕 不明
死没 応永20年10月23日1413年11月16日
官位 陸奥守伊豆守
幕府 室町幕府 甲斐守護
氏族 武田氏
父母 父:武田信成
兄弟 信春、基信、武春、布施満春、栗原武続
信満穴山満春、下条信継、市部信久、吉田成春、観音寺遠大西堂、法弥陀仏、上杉禅秀正室、小笠原長基正室、
武田信繁室ら
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武田 信春(たけだ のぶはる)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将甲斐源氏第12代当主。武田氏9代当主。信時流武田氏の子孫で武田信成の子。官位は陸奥守及び伊豆守

兄弟に基信、武春、布施満春、栗原武続がいる。子は信満穴山満春(武田信元)、下条信継、市部信久、吉田成春、観音寺遠大西堂、法弥陀仏(一蓮寺住持)、上杉禅秀正室小笠原長基正室、武田信繁室など(信春の系譜・子女については「円光院武田家系図」をはじめとする武田家系図類に拠る)。

略歴

安芸国守護であった祖父の信武は北朝・足利尊氏に近侍し、観応2年9月以前には甲斐国の守護に任じられている。『太平記』に拠れば、信春は父の信成とともに北朝(幕府)側に属して戦い、信武に代わり甲斐へ在国したという。文和4年(1355年)4月、柏尾山に陣を構えて甲斐国内の南朝勢力を駆逐した。延文4年(1359年)7月13日もしくは康安2年(1362年)7月晦日には信武が死去する[1]

『一蓮寺過去帳』『上総武田氏系譜』によれば、明徳5年/応永元年(1394年)には父の信成が死去する[2]。『一蓮寺過去帳』や『大聖寺甲斐源氏系図』『武田源氏一統系図『武田源氏一流系図』などの過去帳・系図類の既述から、甲斐守護職を継承したと見られている[3][4]。南北朝時代以後、甲斐守護となった武田氏は守護所甲府盆地東部の東郡に設置し、信春も青梅往還沿いの山梨郡千野郷(現在の山梨県甲州市塩山千野)に館を構えている[5][6]。貞治4年(1365年)には、菱山の地を大善寺(甲州市勝沼町勝沼)に寄進しているのをはじめ、多くの寺領寄進を行っている。

甲斐国志』や『塩山向獄禅菴小年代記』に拠れば、応永20年(1413年)には乱により館が陥落すると萩原山へ逃れ、柳沢に砦を築く[7]。西胤俊承『真愚稿』によれば、同年10月23日に同所で死去する[8][9]。後を子の信満が継いだと見られている。『甲斐国志』によれば、甲州市塩山茅野の慈徳院は信春の菩提寺であり、境内には武田信春館跡がある[10]

脚注

  1. ^ 渡邉(2007)、p.216
  2. ^ 渡邉(2007)、p.217
  3. ^ 『山梨県の地名』、p.237
  4. ^ 渡邉(2007)、p.217
  5. ^ 『山梨県の地名』、p.228
  6. ^ 『山梨県の地名』、p.237
  7. ^ 『山梨県の地名』、p.237
  8. ^ 『山梨県の地名』、p.237
  9. ^ 渡邉(2007)、p.217
  10. ^ 『山梨県の地名』、p.237

参考文献

  • 渡邉正男「南北朝の内乱と武田守護家の確立」『山梨県史 通史編2 中世』山梨県、2007年




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