穴山氏の河内進出
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義武には実子がなく、守護・武田信春の子である信元(満春)が義武の養子となり穴山氏を継承したという。義武の活動が見られるのが延文期であるのに対し、満春の活動期は応永年間であるため、両者の間には開きがあるものの、義武が長命でなおかつ満春の生年が応永以前である場合には整合性が取れることが指摘される。 明徳4年(1392年)には南北朝合一が行われ、河内地方を領していた南朝方の南部氏が陸奥国に移住し、河内領は穴山氏に与えられたという。 応永23年(1416年)には関東で上杉禅秀の乱が発生すると、甲斐守護・武田信満は禅秀方に属し、鎌倉公方足利持氏によって討伐され、応永24年2月6日に天目山において滅亡する。 『一蓮寺過去帳』には「応永廿四年五月廿五日 由阿弥陀仏 修理大夫満春 号穴山」と記されることから、これを穴山満春の命日と理解して満春は信満とともに滅亡したと考えられていた。一方、佐藤八郎は武田家諸系図に満春が嫡子・信重とともに禅秀の乱に加担せず、高野山において出家していており、『一蓮寺過去帳』の記載は信本の逆修供養の日付であると指摘した。 『鎌倉大草紙』によれば、信満の滅亡後に守護不在状態となっていた甲斐では、足利持氏の支援を得た国人の逸見有直が勢力を持ち、足利持氏は有直の甲斐守護補任を推進した。これに対して室町幕府では、将軍足利義持が満春を還俗させ武田信元と改名させ、甲斐守護・武田氏を継承させた。 信元は甲斐へ帰国すると、信濃守護・小笠原政康や信満の子信長の後援を受けて逸見氏に対抗した。さらに、信元は河内領にあたる下山・南部の奪還を試みている。 信元には実子の彦次郎がいたが早世しており、信元は武田信長を養子に迎えることを望むが、室町幕府では上杉禅秀の乱に加担した信長を後継とすることに難色を示し、信長の子・伊豆千代丸を信元の養子にすることを了承している。 三宝院満済『満済准后日記』応永24年(1417年)条や応永15年(1418年)足利義持御内書では信元の存命が確認されるが、応永28年(1421年)に室町幕府では信元の後任に信満の子に信重を据える動きを開始しており、この間に信元は死去したと考えられている。 穴山氏は信元が甲斐を離れた時期から当主不在であったと見られ、その間隙を衝いて在地の穴山一族が台頭し、鎌倉公方や逸見氏と協調していたと考えられている。信重帰国後は、信重の子信介(のぶすけ)が継承する。信介は信重の後援を受け下山・南部方面に攻勢を加えていたと見られるが、信重に先立ち宝徳2年(1450年)に死去している。 『甲斐国志』に拠れば、信重は宝徳3年(1450年)11月24日に小山城主の穴山伊豆守に襲われて戦死したという。穴山伊豆守は信元の次男とされ、当時勘気を受けて追放されていたため、信介が養子として穴山家を継ぐに至ったが、これを恨んだ伊豆守が信重を殺害したのだという。
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