穴山氏の河内進出とは? わかりやすく解説

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穴山氏の河内進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:02 UTC 版)

穴山氏」の記事における「穴山氏の河内進出」の解説

義武には実子がなく、守護武田信春の子である信元(満春)が義武養子となり穴山氏継承したという。義武活動見られるのが延文期であるのに対し、満春の活動期応永年間であるため、両者の間には開きがあるものの、義武長命なおかつ満春の生年応永以前である場合には整合性取れることが指摘される明徳4年1392年)には南北朝合一が行われ、河内地方領していた南朝方の南部氏陸奥国移住し河内領は穴山氏与えられたという。 応永23年1416年)には関東上杉禅秀の乱発生すると、甲斐守護武田信満は禅秀方に属し鎌倉公方足利持氏によって討伐され、応永24年2月6日天目山において滅亡する。 『一蓮寺過去帳』には「応永廿四年五月廿五日 由阿弥陀仏 修理大夫春 号穴山」と記されることから、これを穴山満春命日理解して満春は信満とともに滅亡した考えられていた。一方佐藤八郎武田家系図に満春が嫡子・信重とともに禅秀の乱に加担せず、高野山において出家していており、『一蓮寺過去帳』の記載は信本の逆修供養日付であると指摘した。 『鎌倉大草紙によれば、信満の滅亡後守護不在態となっていた甲斐では、足利持氏支援得た国人逸見有直が勢力持ち足利持氏は有直の甲斐守護補任推進した。これに対して室町幕府では、将軍足利義持が満春を還俗させ武田信元改名させ、甲斐守護武田氏継承させた。 信元甲斐へ帰国すると、信濃守護・小笠原政康や信満の子信長後援受けて逸見氏対抗した。さらに、信元河内領にあたる下山南部奪還試みている。 信元には実子彦次郎がいたが早世しており、信元武田信長養子迎えることを望むが、室町幕府では上杉禅秀の乱加担した信長後継とすることに難色示し信長の子伊豆千代丸信元養子にすることを了承している。 三宝院満済満済准后日記応永24年1417年)条や応永15年1418年足利義持御内書では信元存命確認されるが、応永28年1421年)に室町幕府では信元後任に信満の子に信重を据え動き開始しており、この間信元死去した考えられている。 穴山氏信元甲斐離れた時期から当主不在であった見られその間隙を衝いて在地穴山一族台頭し鎌倉公方逸見氏協調していたと考えられている。信重帰国後は、信重の子信介(のぶすけ)が継承する。信介は信重の後援を受け下山南部方面攻勢加えていたと見られるが、信重に先立ち宝徳2年1450年)に死去している。 『甲斐国志』に拠れば、信重は宝徳3年1450年11月24日小山城主の穴山伊豆守襲われ戦死したという。穴山伊豆守信元次男とされ、当時勘気受けて追放されていたため、信介が養子として穴山家を継ぐに至ったが、これを恨んだ伊豆守が信重を殺害したのだという。

※この「穴山氏の河内進出」の解説は、「穴山氏」の解説の一部です。
「穴山氏の河内進出」を含む「穴山氏」の記事については、「穴山氏」の概要を参照ください。

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