穴山氏の成立
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諸系図によれば、穴山氏は南北朝時代の甲斐守護・武田信武の子である義武(修理大夫)を初代とする。義武は巨摩郡逸見郡穴山(山梨県韮崎市穴山町)を本貫とし、穴山姓を称したという。巨摩郡穴山は甲府盆地の北西端に位置し、七里岩と呼称される台地上に立地する。 義武は父の信武とともに北朝方の足利尊氏に従い戦ったと言われ、『太平記』では延文4年/正平14年(1359年)10月8日に畠山道誓禅門の上洛に随行した人物のなかに、義武の兄にあたる武田信成とともに「同信濃守」として登場する。 諸系図ではいずれも義武を穴山氏の祖としているが、平山優は諸系図を除けば義武が穴山姓を興した記録は見られないことから、義武以前に在地豪族の穴山氏が存在していており、甲斐守護・武田信武が在地の穴山氏に義武を養子として当主に据えたと推定している。 また、守護・武田信武が義武を穴山氏の養子に送り込む背景として、佐藤八郎は甲斐北西部に勢力を持っており武田氏と敵対していた逸見氏に対抗する意図があったとしている。
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