発掘調査と館主に関する考察
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 06:00 UTC 版)
「連方屋敷」の記事における「発掘調査と館主に関する考察」の解説
甲府盆地には連方屋敷と同様に、広大な屋敷地を有する中世の屋敷跡が分布しており、現在では多くが在地の土豪層の屋敷地であると考えられている。一方、江戸後期の『甲斐国志』ではこれらの屋敷地を守護館跡と推定しており、笛吹市石和町小石和の成就院は「武田信重館跡」、笛吹市八代町北の清道院は「武田信守館跡」、甲州市塩山千野の慈徳院は「武田信春館跡」としている。『甲斐国志』におけるこれらの守護館跡の比定は多くが史料的根拠が少なく、菩提寺の所在が根拠になると考えられている。一方で連方屋敷に関して『甲斐国志』では蔵前衆・古屋氏の屋敷地に比定している。連方屋敷内には甲斐守護の菩提寺が存在せず、蔵前衆の系譜を引き継ぐ子孫が居住していることが根拠になると考えられている。 連方屋敷は1972年(昭和47年)に郷土史家の上野晴朗が、連方屋敷を武田氏の蔵前衆・古屋氏の屋敷跡と推定し、武田領国における直轄領である御料所の年貢を収納する御蔵所の在地と評価した。以来、連方屋敷を戦国期の屋敷跡とする評価が定着していたが、1994年(平成6年)には住宅工事に際して南東隅の土塁内側地点で発掘調査が実施され、集石遺稿が検出され、13世紀末期から14世紀初頭の常滑甕の破片や内耳土器が出土した。 さらに2004年(平成16年)には連方屋敷整備活用委員会が組織され、基礎的資料収集のため発掘調査が実施され、掘立柱建物跡や礎石、溝状遺構などが検出され、出土遺物は少ないが13世紀前半から13世紀中頃の高麗青磁梅瓶、大陸産の青磁碗、14世紀中頃から15世紀前半のかわらけなどが出土した。 こうした考古学的調査の進展から、連方屋敷の使用時期は戦国期から南北朝・室町期にあたる14世紀中頃から15世紀中頃に修正されることとなった。連方屋敷南方の街道は南北朝期に創建された清白寺の参道と方位が一致し、計画性を持って設定されたと考えられることからも、この見方が支持される。 こうした観点から2007年(平成19年)には数野雅彦が、連方屋敷は清白寺と密接な関わりを持った権力者の屋敷と評価し、具体的には足利尊氏の姪を室とした南北朝期の甲斐守護・武田信武やその子孫の信春・信満の居館と推定している。
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