発掘調査と遺構・遺物
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酒呑場遺跡は1950年(昭和25年)に建設された山梨県酪農試験場の敷地内にあり、1994年(平成6年)には施設の増改築に際して発掘調査が行われる。以来は1995年の第二次調査、1996年には第三次調査、2001年には屎尿発行施設建設に際して第四次調査が行われる。 4次にわたる発掘調査で、縄文時代の遺構では住居跡が220軒、土坑が5850基検出されている。遺物は土器や石器類が主体であるが、ほかに装身具に用いられたヒスイ大珠が原石や加工に用いたハンマーとともに出土している。 また、古墳時代前期の住居跡15軒、掘立柱建物跡5棟、中近世の溝2条が検出されているほか、平安時代の遺物もわずかに見られる。縄文時代の集落は中央高地や関東地方の広域的な集落変革が見られ、諸磯b式期にはじまり環状集落の五領ヶ台式期から井戸尻式期を経て曽利式期に至る3つの時期があり、以降は拠点集落が長坂上条遺跡へ移る。 2013年、出土品のうち土器・土製品463点、石器・石製品220点が国の重要文化財に指定された。
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発掘調査と遺構・遺物
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1920年(昭和4年)に地元民により発見される。全長99メートル、後円部径49メートル。主軸は東西方向で、前方は西向き。戦後の1970年(昭和45年)に『中道町史』編纂に際して調査が行われ、1976年(昭和51年)には山梨県教育委員会による墳丘測量が行われた。 墳丘は自然地形の上に造成され、東西方向の主軸と並行する主体部は上下二段の構成で、長さ2.2メートル、幅0.8メートル。組合式石棺の蓋石上に、割石小口積みで竪穴式石室が構築された特異な形態であり、京都府向日市向日の妙法山古墳との類似が指摘されている。 細部の調査は行われておらず、墳丘上の埴輪や葺石は確認されていない。石棺内部は朱塗され、成人男女2体の遺骸とともに、銅鏡・農具・玉・武器・武具などの遺物(副葬品)が出土した。ただし「男女2体」と報告された被葬者が本当に男女であるかは良くわかっていない。 石室下段からは岐阜県岐阜市の打越古墳と静岡県磐田市の寺谷銚子塚古墳と同笵(どうはん)関係を持つ三角縁日月銘獣文帯三神三獣鏡、環状乳神獣鏡、変形獣形鏡、八禽鏡が、石棺内からは全体が磨かれた花崗岩製で表面に朱が付着した石枕や管玉などが発見された。出土した石枕は、長さ70センチメートルの円柱形に頭を乗せる窪みを2ヶ所付けた珍しい形状だった。 ほか、農工具類では上段の竪穴式石室内からは渡来系工人の作と考えられている細工が施された鉄製柄付手斧、木質跡や布が付着した跡が見られる短冊形鉄斧、有袋形鉄斧、25点の鉋、鑿、鋸、刀子、木質跡のある鉄鎌が、武器類では鉄剣、鉄刀、短甲が出土している。大丸山古墳から出土した短甲は「竪矧板皮綴短甲」と呼ばれる17枚の鉄板が綴じられた鉄製短甲で、大丸山古墳以外では大阪府の紫金山古墳・岡山県の奥の前1号墳からの出土事例が知られる。 出土遺物の多くは東京国立博物館に所蔵されている。
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