発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「天神遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
八ヶ岳南麓は戦後に山梨県農務部の圃場整備事業が行われていた地域で、天神遺跡は1981年(昭和56年)に事業に伴う試掘調査で遺跡の存在が確認され、同年度から翌年にかけて山梨県教育委員会による発掘調査が実施された。 調査区域は10ヘクタール。南側からA-C区に区分され、A区は縄文中期、B区は平安時代、C区は縄文前期を主体とする。81年度にはA・B区が、翌82年にはCの調査が行われ、1993年(平成5年)にも旧大泉村教育委員会(北杜市教育委員会)によるC区の発掘調査が行われている。 A区は縄文時代中期の集落跡で、曽利Ⅱ-Ⅲ式期の住居跡5軒、土坑3基、埋甕5基が検出されたほか、平安時代の住居跡1軒も検出されている。B区は縄文中期五領ヶ台式期の住居跡3軒のほか平安時代の住居跡4軒と土坑13基が検出されている。C区は縄文前期の墓坑群を伴う大規模集落跡で、住居跡61軒(縄文前期諸磯b式期29軒、諸磯c式期10軒、bないしc式期10軒、縄文中期五領ヶ台式期9軒、平安時代の住居跡3軒)、土坑488基が検出されているほか、縄文式土器や石器、土偶、土製品などの出土遺物が見られる。 C区の縄文前期住居群は中心の墓坑域を囲む環状を成す中央墓坑形環状集落で、直径は150メートル以上。各住居は直径4-5メートルの円形で、中心に炉を持つ。住居内から遺物が出土している。土器は深鉢・浅鉢、有孔などの器種で、石器は縄文前期に特徴的な打製石斧や磨製石斧、石錐、石匙、石鏃などのほか、土偶1点も出土している。また、墓坑内からは副葬品と考えられている土器や装身具としてヒスイ製の耳飾が出土している。 天神遺跡の周辺には山崎・御所・原田・寺所など縄文前期の集落遺跡が分布し、天神遺跡の環状集落遺構は各集落間の関係を把握する上でも重要なものであると位置づけられている。 出土遺物は山梨県埋蔵文化財センター・山梨県立考古博物館に所蔵されている。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「金の尾遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
金の尾遺跡は1977年(昭和52年)に中央自動車道の建設計画に際して発見され、1987年の第一次調査以来、山梨県埋蔵文化財センターや敷島町教育委員会により2004年まで7次の発掘調査が実施されている。周辺は旧敷島町域南部の住宅地であるため、いずれも宅地造成など開発に際して行われた緊急調査で、調査区域は隣接したものではない。 中央道建設工事に際した1987年の第1次調査では県埋蔵文化財センターにより89年まで工事区間の調査が行われ、8000平方メートルの調査範囲で弥生時代の住居跡32軒、方形・円形周溝墓17基、土坑やV字溝などの遺構が検出され、中部高地系土器や東海系土器、縄文時代の住居跡8軒(前期末1、中期中葉7)などが出土した。弥生時代の住居跡からは弥生時代には珍しい土偶が出土している。 第2次調査以降は敷島町教育委員会が主体となり、1990年(平成2年)にはマンション建設に際して遺跡北端にあたる地点が、1992年(平成4年)には町道建設に際して第1次調査地点の南側地点の調査が実施された。1993年(平成5年)には、遊戯施設建設に際して第1次調査区の北側地点が、1997年(平成8年)には町営住宅・民間施設の建設に際して6次までの調査が実施され、環濠の一部などが検出された。 2004年(平成16年)には民間遊技場建設に伴う事前調査が行われ、第一次調査区の北側隣接地域から弥生時代の周溝墓、集落南側を囲む溝状遺構、古墳前期の周溝墓、5世紀初頭の壺型埴輪を伴う低墳丘墓のほか、縄文中期の住居跡1軒や竪穴状遺構1基、集石遺構2基、土坑2基、当遺跡におけるはじめての検出事例となった古墳中期の竪穴状遺構3基と周溝墓3基、住居跡1軒、土坑4基、台付甕などの土器類が検出されている。第5次調査では弥生末期の壺棺が出土し、6次調査ではV字状環濠が検出されている。 縄文時代の遺構では住居跡9軒、竪穴状態遺構1基、集石遺構や土坑が検出されている。第一次調査で検出された8軒の住居跡は、本遺跡において最古となる前期終末の十三菩提式期1軒と中期中葉の勝坂式期7軒で、第7次調査でも1基が確認されている。縄文時代の遺物では縄文早期の押型文土器が最も古く縄文前期には定住痕跡が明瞭な住居跡が確認されているが、主体は縄文中期。第3次調査では中期末から後期初頭の土坑23基が検出されている。 弥生時代の遺構では竪穴住居跡33棟、方形周溝墓26基、壺棺や土坑、溝跡のほか、一部には環濠が存在する。第一次調査では弥生後期の住居跡23軒、方形周溝墓15基、円形周溝墓2基、溝跡が検出され、4次調査では後期住居1基、方形周溝墓9基、溝跡が検出されている。住居跡は地床炉や埋甕炉などを伴い、そのうち25パーセントが焼失家屋で炭化した柱や垂木材、草などの屋根材や焼土や炭化米などが検出されている。 方形周溝墓は1次で17基、4次で9基の26基が確認されており、形態はうち24基を占める方形が主で、2基が円形となっている。第5次調査では壺棺が出土しており、これは正位で蓋のされた状態で出土し、県内ではじめての出土事例となった。6次調査では環濠遺構が確認されている。 集落はV字状の溝により南北に分割し、北側は墓域で土坑が分布している。出土土器は中部高地系と東海系土器の混出が特徴で、地域間交流が考えられている。また、壺型埴輪は県内では曽根丘陵地域の甲斐銚子塚古墳や岡銚子塚古墳、大師東丹保古墳などの出土事例があるが、金の尾遺跡では低墳墓系の2号周溝墓群から二重口縁部が出土し、大師東丹保古墳のものと類似する4世紀末から5世紀初頭にあたる初現期のものであると考えられている。 また、弥生後期の土坑内からは山梨県内で出土事例の少ないスカイブルーのガラス玉7個も出土している。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「美通遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
遺跡は南からA - C区に区分され、さらにB区は1 - 4など発掘年度による調査区が設けられた。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「大師東丹保遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
1993年(平成5年)から翌年にかけて、甲西道路(国道52号)や中部横断自動車道の建設に際して発掘調査が行われる。調査範囲は東西30m、南北400mの範囲で、南北にI〜IV区が設定された。 遺構では掘立柱建物跡や井戸、水路と推定される溝や水田遺構、畑と考えられている畝状遺構や全区画に見られる杭列などが検出されている。建物跡は計7棟あり、II区に4棟の建物が集中し、祭祀具などの遺物も集中していることから支配階層の居住区であると考えられている。南北方向に水路が配され、I・III・IV区には区画された水田が点在している。 集落は13世紀の開発村落であると推定されており、160年あまり存続した。杭列が南に傾斜していることから北方からの洪水被害を受け放棄されたと考えられている。 出土遺物はかわらけ等の土器類のほか国産や中国産の陶磁器、刀子や鏃などの金属器や銭貨のほか、大量の木製品が出土している。有機遺物ではⅠ区から~Ⅳ区で弥生時代と鎌倉時代の動物遺体が出土しているほか、骨角器では弥生時代のイノシシ犬歯製の牙鏃が出土している。 種実ではクルミ・モモ・カキ・ブドウなどが出土している。クルミはオニグルミ・サワグルミ・ヒメグルミの三種が出土しており、大師東丹保遺跡では弥生時代の層ではオニグルミが主体で、鎌倉時代の層ではヒメグルミ・サワグルミが主体に変化する。『延喜式』において、古代の甲斐国では貢進物として「胡桃子」「胡桃油」が記載されている。後述するモモは斎串とともに出土しており、雨乞い祭祀に伴うものである可能性が考えられている。 カキは鎌倉時代の層から立木が検出されており、植栽されたものであると考えられている。ブドウは弥生中期の層から出土しているが、小型であるためヤマブドウやエビヅルなど野生種であると考えられている。昆虫化石ではヒメコガネ・ドウガネブイブイなどが出土している。 木製品では漆椀や箸、曲物や下駄、草履や櫛、扇子などの日用品や装身具、水田の畦畔に差し込まれる斎串や人形(形代)、呪符などの祭祀・呪術具、同時代の絵画資料に見られ建築材と考えられている網代などが出土している。Ⅳ区からは荷札と考えられている鎌倉時代の木簡一点が出土している。 Ⅳ区から出土した大量の斎串はモモ核や獣骨とともに出土している。Ⅱ区の祭祀遺構からも大量の斎串とモモ核・獣骨が出土しており、これらは雨乞いの祭祀に伴うものである可能性が考えられている。 大師東丹保遺跡のⅠ区・Ⅱ区・Ⅲ区の第二面からは、弥生時代後期から弥生末期・古墳時代初頭にかけて発生した地震により生じたと考えられている地割れ・噴砂跡も検出されている。この地震は南海地震もしくはそれに伴う東海地震によるものであると考えられており、徳島県の黒谷川宮ノ前遺跡においても、弥生Ⅱ期の水田面から噴砂跡が検出されている。大師東丹保遺跡の近在では、油田遺跡においても同様に地震跡が検出されている。 出土遺物は山梨県立考古博物館に所蔵されており、網代や下駄などの出土遺物は保存処理が施され、常設展示されている。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「金生遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
1980年(昭和55年)、圃場整備に伴い山梨県教育委員会による発掘調査が行われ、38棟の住居址、5基の配石遺構が確認されている。住居址は縄文後晩期が中心で、竪穴式住居や敷石住居、石組住居など。石組は方形や円形で立石、石棒、丸石などが配置された形態で、石棺状遺構からは焼けた人骨片や耳飾などの装身具も出土しており、墓前祭祀行為が行われていたとも考えられている。 出土遺物は200点を越える土偶のほか石棒、石剣、独鈷石、祭祀用土器などの祭祀遺物のほか、日用品や土製耳飾などの装身具が出土している。 動物遺体では縄文時代のツキノワグマ、イノシシ、ニホンジカ、ニホンカモシカなどが出土している。特に遺跡一角の直径1.3メートル、深さ60センチメートル程度の円形の土坑内部から、大半が幼獣である焼けたイノシシの下顎骨が138個体分出土している。出土した下顎骨は115体が幼獣のもので、多くが非熱していることが指摘される。こうした出土状況から、イノシシ幼獣の下顎を火にくべる宗教的行為が想定され、アイヌのクマ送りの儀礼であるイヨマンテに通じる何らかの狩猟儀礼や農耕儀礼が行われていたとも考えられている。また、縄文時代にイノシシの飼養が行われていた可能性がある事例としても注目されている。 B地区からは縄文後期や平安時代の住居跡も見られるが、中世の遺構が主体となっている。15世紀のものと考えられている49基の地下式土坑群や人骨が検出された墓坑や、16~17世紀の住居跡が10棟以上、溝状遺構や内堀、水溜と考えられる石組遺構が検出されている。地下式土坑は墓所や貯蔵穴、隠れ穴などの説がある。位置的に隣接する旧長坂町域にあたる深草館跡の外郭部遺構と考えられている。出土遺物は土器や陶磁器類、石臼など石製品や金属製品などの日用品、銭貨など。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「油田遺跡 (南アルプス市)」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
周辺は畑地や水田であったが、1989年(平成元年)には建設省甲府工事事務所による国道52号(甲西道路)の建設工事に際して南巨摩郡増穂町(現・富士川町)大椚-中巨摩郡白根町(現・南アルプス市)在家塚間8キロメートルの区間において山梨県埋蔵文化財センターによる遺跡所在確認調査が行われ、10ヶ所の遺跡が確認された。油田遺跡は翌1990年(平成2年)の試掘調査で土師器片が出土し、1992年(平成4年)から翌1993年(平成5年)にかけて発掘調査が実施された。 調査区域は東西40メートル、南北230メートルで、南からI~IV区が設定された。平成4年度の第一次調査ではII・IV区が、平成5年度の第二次調査ではI・III区の調査が行われた。出土遺物は同センターに所蔵され、調査後には甲西道路の開発が進められた。 I区には弥生時代中期中葉の遺物包含層があり、須和田式併行期の壺や甕、黒曜石の石核、剥石や石鏃、動物遺体が出土している。遺物包含層の下層には中期中葉から後葉の時期に発生した地震により作られたと考えられている地震痕があり、地砂脈や噴砂、液状化層や断層が検出されている。 また、埋没河道には中期後葉の遺物が含まれ、中期後葉の土器や磨製石鏃、打製石斧のほか木製堅杵が出土している。木製堅杵は土器類と同じく弥生中期の木製品で、最大長78.5センチメートル、最大幅7.2センチメートル。両部分の境は不明瞭であるが握部が搗部より細く加工されている。表面にも加工痕が認められ、鉄製工具で削られたと考えられている。ほか、I区からは古墳時代の杭列2条も検出されている。 II区では古墳時代後期の土器集中区が1基、III区では集石を伴う古墳時代の祭祀遺構が1基と平安時代の水田跡11枚が検出されている。前期末葉から中期初頭土器はわずかで、IV区の遺構外からは条痕文系甕が検出されている程度。 出土した弥生土器は長野県に分布する栗林系土器と静岡県に分布する有東式土器の系譜に属する土器が2:1の割合で混在しており、中部・東海の異なる地域の文化交流の中継地であった可能性が指摘されている。ほか、平安時代の鉄製品や動植物遺体も出土している。 出土した弥生中期の土器には肉眼観察により籾や雑穀の種子圧痕が報告されていたが、中山誠二は栽培植物の起源に関する研究の一環として、レプリカ・セム法による油田遺跡出土の弥生III~IV期の試料を用いた詳細な分析を行った。報告では玄米痕や籾圧痕などを正確に同定し、現生標本との比較から人為的な脱穀の可能性を指摘している。 油田遺跡からは弥生時代中期前半と古墳時代後期の動物遺体が出土している。弥生中期の遺体はイノシシ・ニホンジカ・イノシシあるいはシカと見られる不明の焼骨片が出土している。弥生時代中期のシカ・イノシシ・種実類は近在の南アルプス市大師の大師東丹保遺跡Ⅰ区からも出土している。さらに、南アルプス市江原の向河原遺跡も近在に所在しており、弥生中期後半の水田跡・集落跡が検出されている。これらの遺跡は同一集団の行動圏内に位置していると考えられており、稲作を生業とする集団が狩猟や堅果の採集を兼ねた生業展開を行っていたと考えられている。 古墳後期の動物遺体はウマ・種不明の焼骨片が出土している。ウマは右第一切歯、左上顎臼歯、右下顎臼歯が1点ずつ出土し、下顎臼歯は咬耗(こうもう)の状態から別個体であると考えられている。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「若神子城」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
若神子城のうち北城は小手指坂の南に位置し、規模は東西100メートル南北400メートル。西側・南側に土塁が残されている。古城は西側の尾根上に位置し、規模は東西100メートル、南北200メートル。古城は明治期に若神子で起きた大火の際に土取が行われ、破壊を受けている。南城は台地東側の張り出し部分に築かれ、若神子に所在する東漸寺の旧地であったという。南城も1982年(昭和57年)の土取の際に破壊を受け、このとき茶臼や常滑焼の破片など遺物が出土している。 1982年(昭和57年)には農村公園建設に際して、古城において発掘調査が実施され、薬研堀や掘立柱建物跡が検出されている。1984年(昭和59年)には北城の発掘調査が行われ、柱坑列が検出されたほか内耳土器やかわらけなどが出土したが、時代を特定できる遺構・遺物は見られない。 北城・古城・南城のいずれも北側の防御が手薄であることが指摘される。 地名の遺称として、古城北東の沢が「たつのくち」、南城東側の沢が「新羅くぼ」と呼ばれる。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「黒川金山」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
1986年(昭和61年)から4年にわたって湯の奥金山遺跡と同時に金山遺跡研究会による発掘調査が行われ、考古学、民俗学、文献史学など総合的な研究報告が作成された。遺跡は鶏冠山山腹の大小300箇所余の平地に分布し、規模は上下600m、幅300mにわたり、採掘の行われていた坑口は30箇所余。平地には採鉱された鉱石の精錬場があり、沢を中心にひな壇状のテラス群が造成されていた。 遺構としては掘立柱建物跡や採掘坑、金掘衆の生活遺構や墓所跡、用途不明の竪穴や石組も検出されている。坑道は数が少なく縦穴があることから、露天掘りが主に用いられたと考えられる。 出土遺物では、主に精錬に際して分離されたスラグのほか、金粉が付着し砂金(川金)採集や灰吹法が行われていた可能性を示すかわらけ、鉱石の破砕に用いる鉱山臼が出土している。 鉱山臼は「粉成(こなし)」の工程において用いられ、鉱石を粉砕することで金などの有用な鉱物を取り出す。黒川金山の鉱山臼は供給孔の内側に上臼と下臼を結合させる軸を有する特異な挽き臼で、「黒川型」と呼ばれ同形態のものが日本列島各地に分布している。正確な導入時期は不明であるが、近世初期の慶長・寛永期には黒川型が改良され、中央の供給口内側に「リンズ」と呼ばれる固定装置をはめて軸を固定した「定形型」も出現する。甲斐国では湯之奥金山の鉱山臼も特徴的であり「湯之奥型」と呼称される。なお、黒川金山の鉱石の組成は金が85%以上で残りもほとんどが銀であり、粉成するだけで金粒が得られるため臼の出土が多く、複雑な灰吹法は積極的に採用されなかった。 ほか、土器・陶磁器類、刀子、鉄鍋、古銭、キセル、簪、鋏、茶臼、石鉢、硯、五輪塔、鉄砲玉などの日用品も出土している。 墓所跡からは人骨や六道銭が検出されて経石も出土し、死者を追善する経塚も造営されていた。伝承によれば金山には遊廓が存在していたといわれるが、そのことを示す考古遺物は発見されていない。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「勝沼氏館」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
1973年(昭和48年)に県立ワインセンターの建設候補地として調査が行われ、館跡の発見により内郭部が全面保存となり、1977年にかけて行われた7次の発掘調査によりほぼ全容が解明された。 館は主郭部と外郭部から構成され、主郭部は東西90m、南北60mで、北側と東側に内堀が見られる。生活遺構が多く、礎石のある建物址が23棟ある。縁石を用いて構築された水路址は幅30cmと45cmのものがあり、井戸と推定される水溜址と連結している。門址は土塁を利用したコの字形で、新旧の2時期があり、礎石があることから上屋が存在していたとも考えられている。また、無遺構部分から広場址、庭石から庭園状遺構、ピットに焼土が充満した小鍛冶施設を伴う工房遺構なども見つかっている。 出土遺物では、煤の付着から灯明用と考えられている土師質土器や、瀬戸美濃産灰釉皿、天目茶碗、中国産の青磁や白磁、染付などの陶磁器類をはじめ、鉄砲玉や刀装具などの武具類、金箸や金槌、毛抜き、茶臼、金属製農具や硯などの日用品、六器台皿などの宗教用具まで幅広く出土している。 勝沼氏館跡からは食具も出土している。漆器の碗類は日用品であったと考えられており、二重の亀甲紋・花鳥紋が描かれたものが見られる。中には薄手・小型のものも存在し、女性用であったとも考えられている。食台である折敷(おしき)は檜材、側板が桜材で結付けられており、脚はなく一片が30センチメートル程度の小型のもの。箸は断面がふくらみのある長方形で角箸に近く、両端がすぼまっている。卸し板、しゃもじ、楊枝も出土している。 また、館跡周辺には加賀屋敷や奥屋敷などの地名も残っていたが、館跡の発掘調査により周辺の街路や町割など旧跡の実態も明らかとなった。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「鰍沢河岸」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
鰍沢河岸跡は富士川の護岸工事や堤防工事などの水防対策事業、国道整備や国土交通省関東地方整備局による甲西道路建設(国道52号改修工事)に際して山梨県埋蔵文化財センターによる発掘調査が行われており、1996年(平成8年)の白子明神護岸工事、2000年 - 2003年、2004年の調査を経て主要施設である御蔵台や問屋街の様相が判明している。 中核施設である御蔵台は矢来で区画された南北40間、東西30間の敷地に諸施設が配置されており、柵に囲まれていたことを示す杭列が検出されている。石積台で周辺より一段高く、水害のたびに嵩上げされていた。前庭跡からは荷積台跡が検出され、周辺からは陶磁器などの遺物が出土しているが、赤瓦が出土しており「甲州鰍沢河岸御蔵台之図」など文献上の記述と符合している。また、出土陶磁器は大半が江戸後期のものであることから、江戸前期の御蔵台が別所にあり移転された可能性も指摘されている。 ほか、問屋街や河岸へ至る道路跡や水路跡、明治期の運送会社建物跡なども検出されている。 出土遺物では江戸時代から明治大正期に至る陶磁器やガラス製品、寛永通宝や文久永宝、天保銭などの銭貨類や甲州金、家内安全を祈願した泥面子などが出土した。また、問屋街の大半を消失したという1821年(文政4年)の鰍沢大火は陶磁器の焼け跡から確認され、砂の堆積した層から数次の洪水があったことも確認されている。 また、白子明神地区(A,B,X区)・口留番所地区・横町地区からは多数の動物遺体が出土し、特にマグロ・イルカ類を含む大型魚類の出土が注目されている。2007年には元禄一分判金が出土し、県内では甲府城跡の慶長一分判金に続く一分金の出土例となった。 現在は甲西道路が建設されているが、出土遺物や石垣を再現したレプリカが山梨県立博物館において常設展示されている。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「立石遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
1980年(昭和55年)に風土記の丘公園建設における道路工事に際して、山梨県教育委員会による発掘調査が行われる。縄文時代前期初頭木島式期の住居跡7軒や縄文中期初頭の住居跡1軒をはじめ、弥生時代後期の住居跡11軒、古墳時代前期の住居跡12軒や方形周溝墓1基、平安時代の住居跡1軒が検出されたほか、黒土帯中から二側縁加工のナイフ形石器など旧石器時代の遺物が出土している。 1988年(昭和63年)にも国道358号の拡張工事に際して、旧東八代郡中道町上向山字北原地点で小規模な発掘調査が行われている。調査区北部の北部ブロック・南部の南部ブロックの二箇所から排土中から旧石器時代の台形様石器2点や削器1点、石核2点、剥片20点や砕片13点の計48点の石器群が出土している。 また、1989年(平成元年)にも発掘調査が行われ台形様石器が出土している。さらに、1993年(平成5年)にも町道工事に際して発掘調査が行われているが、注目される遺構・遺物は見られない。 旧石器時代の遺跡としては、甲府盆地底部にあたる笛吹市・甲州市の釈迦堂遺跡群や八ヶ岳南麓の丘の公園内遺跡群など、それまで個人レベルで行われていた旧石器時代の学術研究が開発による公共事業の増加を受けて本格的な発掘調査が行われるようになった時期にあたる。 出土した石器類は2か所のブロックに集中し、石材は珪質頁岩と泥岩が主体で黒曜石製のものも見られ、石器製作場であったと考えられている。出土層上面に関東地方から九州地方に広く分布する姶良Tn火山灰(AT)の降灰面が確認され、出土石器は横針前久保遺跡とともに南関東地域における立川ローム層第二暗色帯に相当する黒色帯下部にあたる、3万年前の石器群と推定されている。山梨県内においてAT下位から石器群が出土したのは都留市の一杯窪遺跡に続いて二例目となった。 立石遺跡の弥生遺構や宮ノ上遺跡は上の平遺跡から南に位置し、これらは同時期の大規模遺跡であると想定されている。また、上の平遺跡の方形周溝墓群はこれらの集落の共同墓域で、古墳時代の集落も継続して営まれたと考えられている。 現在は畑地で遺構は保存されている。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「花鳥山遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
大正年間には仁科義男による調査が行われているが、本格的な発掘調査は戦後の1948年(昭和23年)に山本寿々雄により行われる。1954年(昭和29年)には國學院大學による発掘調査が行われ、竪穴式住居跡や遺物包含層からの出土遺物が確認されている。同大学教授の樋口清之により新たに花鳥山Ⅰ~Ⅳ式の指標土器として定められた。 1987年(昭和62年)、水管埋設工事に伴う発掘調査が山梨県埋蔵文化財センターにより行われ、狭い調査範囲であるが諸磯a,b式期住居跡が24、土坑33が確認されている。土器は諸磯式土器a~c式が主体で、器種が豊富でc式末から十三菩堤式への変遷といった時期的変遷が追跡できる良質な資料となっている。ほか、最古の縄文早期中葉の押型文土器破片や早期末から前期初頭の繊維土器も出土しているほか、東海地方や西日本資料も出土しており、地域間交流があったと考えられている。また、東京都の遺跡や県内では甲州市塩山)の獅子之前遺跡で出土事例がある土器片を加工した人形状土製品も出土している。石器類は狩猟に使われる石鏃のほか、打製石斧、石皿、磨石、凹石など植物採集や加工、栽培に用いられる石器が出土している。 石器と合わせて植物の炭化物資料が豊富で、堅果類ではクリは少量であるが、クルミ(オニグルミ)は住居跡や土坑から50~90個がまとまって出土しているほか、アク抜き処理を必要とするドングリも出土している。球根類の出土例はそれまで神奈川県平塚市の上ノ入遺跡でキツネノカミソリの出土が報告されている程度であったが、花鳥山遺跡では土坑や包含層から球根類24点が出土し、土器内面のオコゲも確認され全国的に注目される発見となった。その後、県内出土の土器資料が再点検されると球根類の発見例が相次いで報告され、食材としての利用法や野生種との比較など、さまざまな研究が試みられる契機となった。 また、エゴマは栽培植物として縄文農耕論の立場から注目されているが、住居床下から発見された炭化種子塊は国内最古級の資料で、1975年(昭和50年)に長野県の大石遺跡で発見された縄文中期の資料を更新することとなった。ほか、水洗選別により栽培種ではシソ、アブラナ類、ニワトコ、シロザ、スベリヒユ、ミズキなどが検出され、雑草ではエノキグサが検出されている。 動物遺体は狩猟獣であるイノシシやシカが主で、細片で被熱が認められるため食糧であったと考えられている。また、コイ科魚類のエラ骨が発見されており、山梨県内において遺跡から魚骨が出土した初の例となった。なお、山梨県における海水魚類の最古の出土事例は、縄文後期の南アルプス市の百々上八田遺跡から出土したタイ科の骨とされている。また、花鳥山遺跡からは貝殻製のボタン状製品や漁網の重りとも考えられる土器片錘も出土し、漁労具の出土例となった。 出土遺物のうち、1~2次調査のものはそれぞれ京都大学文学部博物館や國學院大學考古博物館で、3次調査のものは山梨県埋蔵文化財センターに保管され、一部は山梨県立考古博物館で展示されている。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「宮沢中村遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
1994年(平成6年)から1996年(平成8年)にかけて、国道52号(甲西道路)開設工事・中部横断自動車道の建設に際して発掘調査が行われ、遺跡の存在は1991年(平成3年)の試掘調査の際に発見された。宮沢中村遺跡を含む第一期工事区間にあたる南巨摩郡増穂町(富士川町)大椚-中巨摩郡白根町(南アルプス市)在家塚の8キロメートル間では中川田遺跡、大師東丹保遺跡など10箇所の遺跡が確認されている。 調査は1994年(平成6年)4月25日から1995年(平成7年)1月20日まで、道路幅25-35メートル、長さ約120メートルの範囲を対象として行われた。調査区域は出水が激しく、調査は排水を行いつつ実施された。 層序は六面で、明治時代の一面から中世前半期の六面まで生活面が確認された。一面は集落の移転が行われた明治期の面で、民家の礎石などが検出されている。第二面は主体となる江戸時代の面で、建物礎石や井戸・池の遺構、法浄寺に関わる本堂・御堂の礎石・参道・水路・池・石垣・墓域などが検出された。宮沢集落の南には、東西に市川道が通過する。宮沢中村遺跡から検出された参道の遺構は、市川道から分岐し法浄寺境内へ至る道である。法浄寺は明治40年代に宮沢集落の移転後も大正期まで当地に存在した。 江戸初期の第四面は洪水により一部のみが残り、建物跡などが検出された。第五面は中世の遺構で、護岸施設として網代を用いた杭列、第六面からは水田が検出された。 遺物では土器や陶磁器、内耳土器、茶碗、皿、灯明具、仏具、下駄や漆碗、桶、箱、糸巻、傘の一部などの木製品、寛永通宝など古銭、簪(かんざし)、煙管などの金属製品、土製品、大型植物化石、昆虫化石など動植物遺存体、墓域からは人骨も確認された。 鎌倉期と推定される5面からは南北に走る2号の杭列が確認された。2号杭列はヒノキ材のヘギを編んで作られた網代の両面に打たれており、東側には水田面がある。杭列の西側には砂利層が確認されることから河川の流路が存在していたと推定され、杭列は護岸のための施設であったと考えられている。宮沢中村遺跡に近い二本柳遺跡においても同様に平安・鎌倉時代の杭列が発見されえている。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「身洗沢遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
周辺は果樹林であったが、1988年(昭和63年)に県道309号石橋石和線(現山梨県道313号藤垈石和線の一区間)の建設事業に伴い試掘調査が実施され、遺跡の存在が想定された。翌1989年には山梨県埋蔵文化財センターによる発掘調査が実施され、弥生後期の竪穴式住居跡2軒や水田跡、弥生時代の土器や木製品のほか、古墳前期の竪穴状遺構1基、土坑・ピット67基、近世の水溜状遺構1基、水田跡など検出され、縄文中期の遺物も出土している。 弥生時代の遺構が見られるのは調査区北側区域で、微高地上に石囲いの埋甕炉など内部施設を伴う住居跡が配置され、柱列内には柱材下部が現存しており、1号住居では丸太材、2号住居では板状に加工された柱が用いられている。県内ではじめて発見された弥生水田は住居南側の埋没旧河道の窪地に営まれ、古墳時代前期段階で完全に埋没するまで水田の造成と洪水による埋没が繰り返されており、水田の変遷が追跡できる。水田跡は畦畔や水路など水田施設を伴い、水田面からは人間の足跡も検出されている。 弥生土器は弥生後期の中央高地型櫛描文(Ⅴ期)を主体とする土器群で、東海系土器群も混出している。弥生後期の水田跡出土木製品も県内では出土事例のなかった遺物で、鍬・エブリなどの未製品や膝柄鍬の柄、又鍬などの農具類、木製剣や用途不明の組合式木製品・部材などが検出された。また、水田跡の窪地からはカヤ、イヌガヤ、オニグルミ、クリ、トチノキ、エゴノキ、モモ、イネ、ヒョウタンなどの植物遺存体が検出されている。水田跡からは偶蹄目の動物の足跡も発見されており、シカやイノシシ、あるいは家畜としてのウシの可能性が考えられている。 古墳時代の遺構は調査区中央部から南側区域にかけて見られ、建物の垂木が焼け落ちた状態の火災住居であったと考えられている竪穴状遺構が検出されており、S字状口縁付台甕(S字甕)や土器類、木製品などが出土している。 出土遺物は山梨県埋蔵文化財センターに保管され、一部は山梨県立考古博物館において展示されている。1996年には、木製品など一部が県指定文化財となる。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「稲荷塚古墳 (甲府市)」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
東山地域では甲斐銚子塚古墳の素材する曽根丘陵公園整備に伴う山梨県埋蔵文化財センターによる調査が1979年(昭和54年)から行われており、1986年(昭和62年)にはこの地域ではじめての後期古墳の調査例となった考古博物館構内古墳の発掘調査が実施された。稲荷塚古墳は埋文センターの末木健を中心に1987年7月13日から9月22日まで行われ、遺構や出土遺物が確認されている。 1号墳は直径20メートルの円墳で、南西に開口する横穴式石室をもつ。墳丘上部の盛土は削平され、石室の一部は崩壊し天井石が消失しており、葺石や埴輪等も見られない。一部には溝跡も確認されているが、墳丘に伴う周溝であるかは不明。 出土遺物は石室内部の出入口部や敷石上から出土し、土師器や須恵器、県内ではじめての出土例となった銀象嵌(ぎんぞうがん)装飾円頭大刀や刀子、刀装具、甲冑小札類、鉄鏃、馬具などの鉄製品、玉類や金環などの装身具、銅椀などの副葬品が発見されているほか、平安時代の土師器や墨書土器も出土している。 また、発掘調査に際した測量調査で2号墳、3号墳の存在が確認されている。1号墳北側に位置する3号墳は墳丘ではない盛土であると確認されており、墳丘の関係は不明であるが近世の五輪塔(空風輪)が出土している。1号墳南東に接している2号墳は古墳中期の東山南遺跡に属すると考えられているが、開墾による削平を受けており、鉄片や須恵器片などわずかな遺物が確認されている。また、縄文時代の石器や弥生土器、土製品なども出土している。 出土した須恵器や銀象嵌装大刀、馬具などの編年から稲荷塚古墳の築造は6世紀後半で、7世紀代までの追葬が推定されておいる。銀象嵌装大刀や銅椀、武具の発見は古墳後期における中道地域に有力豪族が存在していたことを示すものとなった。 調査後は埋め戻され、史跡指定・整備は行われていない。出土遺物のうち銀象嵌装大刀と銅椀は保存処理が施され、調査資料・写真類とともには山梨県埋蔵文化財センターで所蔵され、一部は山梨県立考古博物館で展示されている。 2002年(平成14年)7月4日には190点が「稲荷塚古墳出土銅鋺・象嵌大刀等出土品一括」として県指定文化財(考古資料)に指定される。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「宮間田遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
旧武川村では1979年(昭和54年)から県営圃場整備事業が実施されており、これに伴う現地調査により平安時代を主体とする土器片などが採取された。1985年(昭和60年)5月13日から17日にかけて行われた試掘調査では平安時代を主体とする土器片や竪穴式住居跡などが検出され、宮間田遺跡の発掘調査に至る。 調査は1985年(昭和60年)7月22日から翌86年11月29日・同年6月6日から10月25日にかけて二次にわたり、文化庁・山梨県より補助金を得て旧武川村教育委員会により行われた。発掘調査・資料整理に際しては旧白州町教育委員会・財団法人山梨文化財研究所の協力を得て実施された。 調査では平安時代の竪穴住居跡94軒・掘立柱建物跡45棟・方形竪穴状遺構・鍛冶工房が検出されている。方形竪穴状遺構は地面を掘り窪めた空間を利用した建物の遺構で、全国的に12世紀後半代から確認されている。遺物を伴うことが少ないことから機能は不明瞭であるが、聞き取り調査・民俗事例から馬小屋とする説がある。山梨県内では八ヶ岳南麓地域に多く分布しており、宮間田遺跡では24が確認されている。そのうち9号住居跡は13世紀のもので、47号住居跡は鉄滓が出土していることから鍛冶遺構であると考えられている。 出土遺物では土師器・須恵器・灰釉陶器・銅製巡方の腰帯具・墨書土器・線刻土器などの出土文字資料が確認された。第78住居跡から出土した墨書土器には「牧口」の文字が確認され、真衣野牧に関連する集落であったと考えられている。 麻・苧麻(からむし)から繊維を取り出すための金属製工具である苧引金(おひき がね)も出土している。山梨県では9世紀後半代に苧引金が確認され、古代の巨摩郡に含まれる八ヶ岳南麓地域において特徴的に出土することから、一帯における麻布の栽培や牧との関わり、巨摩郡において租税対象である「商布」が生産されていた可能性などが論じられている。 宮間田遺跡出土の苧引金は61号住居跡から1点が出土した。年代は9世紀。鉄製・半欠。大振りのもので、刃の現存部全長は9.2センチメートル。刃幅は3センチメートル程度。全体に緩く外反し、端部は角状に尖る。角状部分は菱型断面を呈しており、木質部が残ることから刃と平行する方向に木質部が取り付けられていたと考えられている。こうした特徴は山梨県における苧引金の形態としては珍しい例であることが指摘される。
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発掘調査と検出遺構・出土遺物
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「柏尾山経塚」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説
1962年(昭和37年)に東京電力柏尾発電所の導水管埋設工事中に発見される。郷土史家の上野晴朗による現地調査が行われ、南北に1メートル程度の間隔で6基の経塚が並ぶことが確認された。 経塚は地表70センチメートル下に土坑があり、自然石による小石室を成している。1号経塚からは刀身1点が出土し、2号経塚から康和5年(1103年)4月22日在銘の経筒1点、陶製外容器1点、小玉25点、経軸残欠8点が発見された。3号経塚も確認されているが、出土遺物は見られず、6号経塚からは銅製経筒2点が出土している。 ほか、納入品として鉄製刀剣1、木製の経軸残欠8、陶製外容器1、ガラス製・木製の玉類25、銅製経筒2、経巻残欠1などの経塚遺物が確認されている。 ガラス玉は東京国立博物館に16点が収蔵されているが、出土時には24点あったという。山梨県立博物館には、失われた8点のひとつであると考えられるガラス小玉1点が収蔵されている。 2015年には甲州市大和町の個人宅から副納品の一部と見られる経軸1本、ガラス玉1個、木製数珠玉2個、石室の蓋として用いられた石材、防腐剤として用いられた炭の一部が発見された。ガラス玉は発見時の24点のうちの一部と見られているが、木製数珠玉は発見時に1個が報告されており、記録に見られない発見として注目されている。
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