発掘調査と検出遺構・出土遺物とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 発掘調査と検出遺構・出土遺物の意味・解説 

発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 08:23 UTC 版)

天神遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

八ヶ岳南麓戦後山梨県農務部の圃場整備事業が行われていた地域で、天神遺跡1981年昭和56年)に事業に伴う試掘調査遺跡存在確認され同年度から翌年にかけて山梨県教育委員会による発掘調査実施された。 調査区域は10ヘクタール南側からA-C区区分され、A区は縄文中期B区平安時代、C区は縄文前期主体とする。81年度にはA・B区が、翌82年にはCの調査が行われ、1993年平成5年)にも旧大泉村教育委員会北杜市教育委員会)によるC区の発掘調査が行われている。 A区は縄文時代中期集落跡で、曽利-式期の住居跡5軒、土坑3基、埋甕5基が検出されたほか、平安時代住居跡1軒も検出されている。B区縄文中期五領ヶ台式期の住居跡3軒のほか平安時代住居跡4軒と土坑13基が検出されている。C区は縄文前期の墓坑群を伴う大規模集落跡で、住居跡61軒(縄文前期諸磯b式期29軒、諸磯c式期10軒、bないしc式期10軒、縄文中期五領ヶ台式期9軒、平安時代住居跡3軒)、土坑488基が検出されているほか、縄文式土器石器土偶土製品などの出土遺物見られる。 C区の縄文前期住居群は中心の墓坑域を囲む環状を成す中央墓坑形環状集落で、直径150メートル以上。各住居直径4-5メートル円形で、中心に炉を持つ。住居内から遺物出土している。土器深鉢・浅鉢、有孔などの器種で、石器縄文前期特徴的な打製石斧磨製石斧石錐石匙石鏃などのほか、土偶1点出土している。また、坑内からは副葬品考えられている土器装身具としてヒスイ製の耳飾出土している。 天神遺跡周辺には山崎御所・原田・寺所など縄文前期集落遺跡分布し天神遺跡環状集落遺構は各集落間の関係を把握する上で重要なのである位置づけられている。 出土遺物山梨県埋蔵文化財センター山梨県立考古博物館所蔵されている。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「天神遺跡」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「天神遺跡」の記事については、「天神遺跡」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 16:20 UTC 版)

金の尾遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

金の尾遺跡1977年昭和52年)に中央自動車道建設計画に際して発見され1987年第一次調査以来山梨県埋蔵文化財センター敷島町教育委員会により2004年まで7次の発掘調査実施されている。周辺は旧敷島町南部住宅地であるため、いずれも宅地造成など開発に際して行われた緊急調査で、調査区域は隣接したものではない。 中央道建設工事際した1987年第1次調査では県埋蔵文化財センターにより89年まで工事区間調査が行われ、8000平方メートル調査範囲弥生時代住居跡32軒、方形円形周溝17基、土坑V字溝などの遺構検出され中部高地土器東海土器縄文時代住居跡8軒(前期末1、中期中葉7)などが出土した弥生時代住居跡からは弥生時代には珍しい土偶出土している。 第2次調査以降敷島町教育委員会主体となり、1990年平成2年)にはマンション建設に際して遺跡北端にあたる地点が、1992年平成4年)には町道建設に際して第1次調査地点南側地点調査実施された。1993年平成5年)には、遊戯施設建設に際して第1次調査区の北側地点が、1997年平成8年)には町営住宅民間施設建設に際して6次までの調査実施され環濠一部などが検出された。 2004年平成16年)には民間遊技場建設に伴う事前調査が行われ、第一次調査区の北側隣接地域から弥生時代周溝墓、集落南側を囲む溝状遺構古墳前期周溝墓、5世紀初頭の壺型埴輪を伴う低墳丘墓のほか、縄文中期住居跡1軒や竪穴遺構1基、集石遺構2基、土坑2基、当遺跡におけるはじめての検出事例となった古墳中期竪穴遺構3基と周溝墓3基、住居跡1軒、土坑4基、台付甕などの土器類検出されている。第5次調査では弥生末期壺棺出土し、6次調査ではV字環濠検出されている。 縄文時代遺構では住居跡9軒、竪穴状態遺構1基、集石遺構土坑検出されている。第一次調査検出された8軒の住居跡は、本遺跡において最古となる前期終末十三菩提式期1軒と中期中葉勝坂式期7軒で、第7次調査でも1基が確認されている。縄文時代の遺物では縄文早期押型文土器が最も古く縄文前期には定住痕跡明瞭な住居跡確認されているが、主体縄文中期第3次調査では中期末から後期初頭土坑23基が検出されている。 弥生時代遺構では竪穴住居跡33棟、方形周溝墓26基、壺棺土坑、溝跡のほか、一部には環濠存在する第一次調査では弥生後期住居跡23軒、方形周溝墓15基、円形周溝墓2基、溝跡が検出され、4次調査では後期住居1基、方形周溝墓9基、溝跡が検出されている。住居跡地床炉や埋甕炉などを伴いそのうち25パーセント焼失家屋炭化した垂木材、などの屋根材焼土炭化米などが検出されている。 方形周溝墓1次17基、4次で9基の26基が確認されており、形態はうち24基を占め方形が主で、2基が円形となっている。第5次調査では壺棺出土しており、これは正位のされた状態で出土し県内ではじめての出土事例となった。6次調査では環濠遺構確認されている。 集落V字状の溝により南北分割し北側墓域土坑分布している。出土土器中部高地系と東海土器の混出が特徴で、地域間交流考えられている。また、壺型埴輪県内では曽根丘陵地域甲斐銚子塚古墳岡銚子塚古墳大師東丹保古墳などの出土事例があるが、金の尾遺跡では低墳墓系の2号周溝墓群から二重口縁部出土し大師東丹保古墳のものと類似する4世紀末から5世紀初頭にあたる初現期のものである考えられている。 また、弥生後期土坑内からは山梨県内出土事例少なスカイブルーガラス玉7個も出土している。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「金の尾遺跡」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「金の尾遺跡」の記事については、「金の尾遺跡」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/08 16:19 UTC 版)

美通遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

遺跡は南からA - C区区分され、さらにB区1 - 4など発掘年度による調査区設けられた。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「美通遺跡」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「美通遺跡」の記事については、「美通遺跡」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 16:31 UTC 版)

大師東丹保遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

1993年平成5年)から翌年にかけて、甲西道路国道52号)や中部横断自動車道建設に際して発掘調査が行われる。調査範囲東西30m、南北400m範囲で、南北にI〜IV区が設定された。 遺構では掘立柱建物跡井戸水路推定される溝や水田遺構、畑と考えられている畝状遺構や全区画見られる列などが検出されている。建物跡は計7棟あり、II区に4棟建物集中し祭祀具などの遺物集中していることから支配階層居住区であると考えられている。南北方向水路配され、I・IIIIV区には区画され水田点在している。 集落13世紀開発村落であると推定されており、160年あまり存続した。列が南に傾斜していることから北方からの洪水被害を受け放棄されたと考えられている。 出土遺物かわらけ等の土器類のほか国産中国産の陶磁器刀子や鏃などの金属器銭貨のほか、大量木製品出土している。有機遺物ではⅠ区から~区で弥生時代鎌倉時代動物遺体出土しているほか、骨角器では弥生時代イノシシ犬歯製の牙鏃が出土している。 種実ではクルミ・モモ・カキ・ブドウなどが出土している。クルミはオニグルミ・サワグルミ・ヒメグルミの三種出土しており、大師東丹保遺跡では弥生時代の層ではオニグルミ主体で、鎌倉時代の層ではヒメグルミ・サワグルミが主体変化する。『延喜式』において、古代甲斐国では貢進物として「胡桃子」「胡桃油」が記載されている。後述するモモ斎串とともに出土しており、雨乞い祭祀に伴うものである可能性考えられている。 カキ鎌倉時代の層から立木検出されており、植栽されたものである考えられている。ブドウ弥生中期の層から出土しているが、小型であるためヤマブドウエビヅルなど野生種であると考えられている。昆虫化石ではヒメコガネ・ドウガネブイブイなどが出土している。 木製品では漆や箸、曲物下駄草履扇子などの日用品装身具水田畦畔差し込まれる斎串人形形代)、呪符などの祭祀呪術具、同時代絵画資料見られ建築材考えられている網代などが出土している。区からは荷札考えられている鎌倉時代木簡一点出土している。 区から出土した大量斎串モモ獣骨とともに出土している。区の祭祀遺構からも大量斎串モモ獣骨出土しており、これらは雨乞い祭祀に伴うものである可能性考えられている。 大師東丹保遺跡のⅠ区・区・区の第二面からは、弥生時代後期から弥生末期・古墳時代初頭にかけて発生した地震により生じた考えられている地割れ・噴砂跡も検出されている。この地震南海地震もしくはそれに伴う東海地震よるものであると考えられており、徳島県黒谷川宮ノ前遺跡においても、弥生Ⅱ期水田面から噴砂跡が検出されている。大師東丹保遺跡近在では、油田遺跡においても同様に地震跡が検出されている。 出土遺物山梨県立考古博物館所蔵されており、網代下駄などの出土遺物保存処理施され常設展示されている。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「大師東丹保遺跡」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「大師東丹保遺跡」の記事については、「大師東丹保遺跡」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/05 08:18 UTC 版)

金生遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

1980年昭和55年)、圃場整備に伴い山梨県教育委員会による発掘調査が行われ、38棟の住居址、5基の配石遺構確認されている。住居址縄文晩期中心で、竪穴式住居敷石住居石組住居など石組方形円形立石石棒丸石などが配置され形態で、石棺遺構からは焼けた人骨片や耳飾などの装身具出土しており、墓前祭行為が行われていたとも考えられている。 出土遺物200点を越え土偶のほか石棒石剣独鈷石祭祀用土器などの祭祀遺物のほか、日用品土製耳飾などの装身具出土している。 動物遺体では縄文時代ツキノワグマイノシシニホンジカニホンカモシカなどが出土している。特に遺跡一角直径1.3メートル深さ60センチメートル程度円形土坑内部から、大半幼獣である焼けたイノシシ下顎骨138個体出土している。出土した下顎骨115体が幼獣のもので、多くが非熱していることが指摘されるこうした出土状況から、イノシシ幼獣下顎を火にくべる宗教的行為想定されアイヌクマ送り儀礼であるイヨマンテ通じ何らかの狩猟儀礼農耕儀礼が行われていたとも考えられている。また、縄文時代イノシシ飼養が行われていた可能性がある事例としても注目されているB地区からは縄文後期平安時代住居跡見られるが、中世遺構主体となっている。15世紀のものと考えられている49基の地下土坑群や人骨検出された墓坑や、16~17世紀住居跡10棟以上、溝状遺構内堀水溜考えられる石組遺構検出されている。地下土坑墓所貯蔵穴隠れ穴などの説がある。位置的に隣接する長坂町域にあたる深草館跡外郭遺構考えられている。出土遺物土器陶磁器類、石臼など石製品金属製品などの日用品銭貨など。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「金生遺跡」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「金生遺跡」の記事については、「金生遺跡」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/22 02:35 UTC 版)

油田遺跡 (南アルプス市)」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

周辺畑地水田であったが、1989年平成元年)には建設省甲府工事事務所による国道52号甲西道路)の建設工事に際して南巨摩郡増穂町(現・富士川町大椚-中巨摩郡白根町(現・南アルプス市在家塚間8キロメートル区間において山梨県埋蔵文化財センターによる遺跡所在確認調査が行われ、10ヶ所の遺跡確認された。油田遺跡は翌1990年平成2年)の試掘調査土師器片が出土し1992年平成4年)から翌1993年平成5年)にかけて発掘調査実施された。 調査区域は東西40メートル南北230メートルで、南からI~IV区が設定された。平成4年度の第一次調査ではIIIV区が、平成5年度の第二次調査ではI・III区の調査が行われた。出土遺物は同センター所蔵され調査後には甲西道路開発進められた。 I区には弥生時代中期中葉遺物包含層があり、須和田式併行期の壺や甕、黒曜石石核、剥石や石鏃動物遺体出土している。遺物包含層下層には中期中葉から後葉時期発生した地震により作られたと考えられている地震痕があり、地砂脈や噴砂、液状化層や断層検出されている。 また、埋没河道には中期後葉遺物含まれ中期後葉土器磨製石鏃打製石斧のほか木製出土している。木製土器類同じく弥生中期木製品で、最大長78.5センチメートル最大幅7.2センチメートル両部分の境は不明瞭であるが握部が搗部より細く加工されている。表面にも加工痕が認められ鉄製工具削られたと考えられている。ほか、I区からは古墳時代2条検出されている。 II区では古墳時代後期土器集中区が1基、III区では集石を伴う古墳時代祭祀遺構が1基と平安時代水田11検出されている。前期末葉から中期初頭土器はわずかで、IV区の遺構外からは条痕文系甕が検出されている程度出土した弥生土器長野県分布する栗林土器静岡県分布する有東土器系譜属す土器が2:1の割合混在しており、中部東海異な地域文化交流中継であった可能性指摘されている。ほか、平安時代鉄製品や動植物遺体出土している。 出土した弥生中期土器には肉眼観察により籾や雑穀種子圧痕報告されていたが、中山誠二は栽培植物起源に関する研究一環としてレプリカ・セム法による油田遺跡出土弥生IIIIV期試料用いた詳細な分析行った報告では玄米痕や籾圧痕などを正確に同定し現生標本との比較から人為的な脱穀可能性指摘している。 油田遺跡からは弥生時代中期前半古墳時代後期動物遺体出土している。弥生中期遺体はイノシシ・ニホンジカ・イノシシあるいはシカと見られる不明焼骨片が出土している。弥生時代中期シカ・イノシシ種実類近在南アルプス市大師大師東丹保遺跡Ⅰ区からも出土している。さらに、南アルプス市江原向河原遺跡近在所在しており、弥生中期後半水田跡・集落跡検出されている。これらの遺跡同一集団行動圏内に位置していると考えられており、稲作生業とする集団狩猟堅果採集兼ねた生業展開を行っていたと考えられている。 古墳後期動物遺体ウマ・種不明焼骨片が出土している。ウマは右第一切歯左上臼歯右下臼歯1点ずつ出土し下顎臼歯は咬耗(こうもう)の状態から別個体であると考えられている。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「油田遺跡 (南アルプス市)」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「油田遺跡 (南アルプス市)」の記事については、「油田遺跡 (南アルプス市)」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/22 15:26 UTC 版)

若神子城」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

若神子城のうち北城小手指坂の南に位置し規模東西100メートル南北400メートル西側南側土塁残されている。古城西側尾根上に位置し規模東西100メートル南北200メートル古城明治期若神子起きた大火の際に土取が行われ、破壊受けている。南城台地東側張り出し部分築かれ若神子所在する東漸寺旧地であったという。南城1982年昭和57年)の土取の際に破壊を受け、このとき茶臼常滑焼破片など遺物出土している。 1982年昭和57年)には農村公園建設に際して古城において発掘調査実施され薬研堀掘立柱建物跡検出されている。1984年昭和59年)には北城発掘調査が行われ、坑列が検出されたほか内耳土器かわらけなどが出土したが、時代特定できる遺構・遺物見られない北城古城南城いずれも北側防御手薄であることが指摘される地名の遺称として、古城北東の沢が「たつのくち」、南城東側の沢が「新羅くぼ」と呼ばれる

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「若神子城」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「若神子城」の記事については、「若神子城」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 03:55 UTC 版)

黒川金山」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

1986年昭和61年)から4年わたって湯の奥金山遺跡同時に金山遺跡研究会による発掘調査が行われ、考古学民俗学文献史学など総合的な研究報告作成された。遺跡鶏冠山山腹大小300箇所余の平地分布し規模上下600m、幅300mにわたり、採掘行われていた坑口30箇所余。平地には採鉱され鉱石精錬場があり、沢を中心にひな壇状のテラス群が造成されていた。 遺構としては掘立柱建物跡採掘坑、金掘衆の生活遺構墓所跡、用途不明竪穴石組検出されている。坑道は数が少なく縦穴があることから、露天掘りが主に用いられたと考えられる出土遺物では、主に精錬に際して分離されスラグのほか、金粉付着し砂金(川金)採集灰吹法が行われていた可能性を示すかわらけ鉱石破砕用い鉱山臼が出土している。 鉱山臼は「粉成(こなし)」の工程において用いられ鉱石粉砕することで金などの有用な鉱物取り出す黒川金山鉱山臼は供給孔の内側上臼と下臼を結合させる軸を有する特異な挽き臼で、「黒川型」と呼ばれ同形態のものが日本列島各地分布している。正確な導入時期は不明であるが、近世初期慶長寛永期に黒川型が改良され中央の供給口内側に「リンズ」と呼ばれる固定装置をはめて軸を固定した定形型」も出現する甲斐国では湯之奥金山鉱山臼も特徴的であり「湯之奥型」と呼称される。なお、黒川金山鉱石組成は金が85%以上で残りもほとんどが銀であり、粉成するだけで金粒得られるため臼の出土多く複雑な灰吹法積極的に採用されなかった。 ほか、土器陶磁器類、刀子鉄鍋古銭キセル、簪、鋏、茶臼石鉢、硯、五輪塔鉄砲玉などの日用品出土している。 墓所跡からは人骨六道銭検出され経石出土し死者追善する経塚造営されていた。伝承によれば金山には遊廓存在していたといわれるが、そのことを示す考古遺物発見されていない

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「黒川金山」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「黒川金山」の記事については、「黒川金山」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 01:42 UTC 版)

勝沼氏館」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

1973年昭和48年)に県立ワインセンターの建設候補地として調査が行われ、館跡発見により内郭部が全面保存となり、1977年にかけて行われた7次の発掘調査によりほぼ全容解明された。 館は主郭部外郭部から構成され主郭部東西90m、南北60mで、北側東側内堀見られる。生活遺構多く礎石のある建物址が23棟ある。縁石用いて構築され水路址は幅30cmと45cmのものがあり、井戸推定される水溜址と連結している。門址は土塁利用したコの字形で、新旧の2時期があり、礎石があることから上屋存在していたとも考えられている。また、遺構部分から広場址、庭石から庭園遺構ピット焼土充満した小鍛冶施設を伴う工房遺構なども見つかっている。 出土遺物では、煤の付着から灯明用と考えられている土師土器や、瀬戸美濃灰釉皿、天目茶碗中国産の青磁白磁染付などの陶磁器類をはじめ、鉄砲玉刀装具などの武具類金箸金槌毛抜き茶臼金属製農具や硯などの日用品六器台皿などの宗教用具まで幅広く出土している。 勝沼氏館跡からは食具も出土している。漆器の碗類は日用品であった考えられており、二重の亀甲紋花鳥紋が描かれたものが見られる中には薄手小型のものも存在し女性用であったとも考えられている。食台である折敷(おしき)は材、側板材で結付けられており、脚はなく一片30センチメートル程度小型のもの。箸は断面ふくらみのある長方形で角箸に近く両端すぼまっている。卸し板、しゃもじ楊枝出土している。 また、館跡周辺には加賀屋敷や奥屋敷などの地名残っていたが、館跡発掘調査により周辺街路町割など旧跡実態も明らかとなった

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「勝沼氏館」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「勝沼氏館」の記事については、「勝沼氏館」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 08:12 UTC 版)

鰍沢河岸」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

鰍沢河岸跡は富士川護岸工事堤防工事などの水防対策事業国道整備国土交通省関東地方整備局による甲西道路建設国道52号改修工事に際して山梨県埋蔵文化財センターによる発掘調査が行われており、1996年平成8年)の白子明神護岸工事2000年 - 2003年2004年調査経て主要施設である御蔵台や問屋街様相判明している。 中核施設である御蔵台は矢来区画され南北40間、東西30間の敷地諸施設配置されており、柵に囲まれていたことを示す列が検出されている。石積台で周辺より一段高く、水害のたびに嵩上げされていた。前庭跡からは荷積台跡が検出され周辺からは陶磁器などの遺物出土しているが、赤瓦出土しており「甲州鰍沢河岸御蔵台之図」など文献上の記述符合している。また、出土陶磁器大半江戸後期のものであることから、江戸前期御蔵台が別所にあり移転され可能性指摘されている。 ほか、問屋街河岸へ至る道路跡や水路跡、明治期運送会社建物跡なども検出されている。 出土遺物では江戸時代から明治大正期に至る陶磁器ガラス製品寛永通宝文久永宝天保銭などの銭貨類や甲州金家内安全祈願した泥面子などが出土したまた、問屋街大半消失したという1821年文政4年)の鰍沢大火陶磁器焼け跡から確認され、砂の堆積した層から数次洪水があったことも確認されている。 また、白子明神地区(A,B,X区)・口留番所地区横町地区からは多数動物遺体出土し、特にマグロ・イルカ類を含む大型魚類出土注目されている2007年には元禄一分判金が出土し県内では甲府城跡の慶長一分判金に続く一分金出土例となった。 現在は甲西道路建設されているが、出土遺物石垣再現したレプリカ山梨県立博物館において常設展示されている。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「鰍沢河岸」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「鰍沢河岸」の記事については、「鰍沢河岸」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 21:40 UTC 版)

立石遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

1980年昭和55年)に風土記の丘公園建設における道路工事に際して山梨県教育委員会による発掘調査が行われる。縄文時代前期初頭木島式期の住居跡7軒や縄文中期初頭住居跡1軒をはじめ、弥生時代後期住居跡11軒、古墳時代前期住居跡12軒や方形周溝墓1基、平安時代住居跡1軒が検出されたほか、黒土帯中から二側縁加工ナイフ形石器など旧石器時代遺物出土している。 1988年昭和63年)にも国道358号拡張工事に際して旧東八代郡中道町上向山字北原地点小規模な発掘調査が行われている。調査区北部北部ブロック南部南部ブロックの二箇所から排土中から旧石器時代台形石器2点や削器1点石核2点剥片20点砕片13点の計48点の石器群が出土している。 また、1989年平成元年)にも発掘調査が行われ台形石器出土している。さらに、1993年平成5年)にも町道工事に際して発掘調査が行われているが、注目される遺構・遺物見られない旧石器時代の遺跡としては、甲府盆地底部にあたる笛吹市甲州市釈迦堂遺跡群八ヶ岳南麓丘の公園内遺跡群など、それまで個人レベル行われていた旧石器時代学術研究開発による公共事業増加受けて本格的な発掘調査が行われるようになった時期にあたる。 出土した石器類は2か所のブロック集中し石材珪質頁岩泥岩主体黒曜石製のものも見られ石器作場であった考えられている。出土上面関東地方から九州地方広く分布する姶良Tn火山灰(AT)の降灰面が確認され出土石器は横針前久保遺跡とともに南関東地域における立川ローム層第二暗色帯に相当する黒色帯下部にあたる、3万年前の石器群と推定されている。山梨県内においてAT下位から石器群が出土したのは都留市一杯遺跡続いて二例目となった立石遺跡弥生遺構宮ノ上遺跡上の平遺跡から南に位置し、これらは同時期の大規模遺跡であると想定されている。また、上の平遺跡方形周溝墓群はこれらの集落共同墓域で、古墳時代集落継続して営まれたと考えられている。 現在は畑地遺構保存されている。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「立石遺跡」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「立石遺跡」の記事については、「立石遺跡」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 21:20 UTC 版)

花鳥山遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

大正年間には仁科義男による調査が行われているが、本格的な発掘調査戦後1948年昭和23年)に山本寿々雄により行われる1954年昭和29年)には國學院大學による発掘調査が行われ、竪穴式住居跡遺物包含層からの出土遺物確認されている。同大教授樋口清之により新たに花鳥山Ⅰ~式の指標土器として定められた。 1987年昭和62年)、水管埋設工事に伴う発掘調査山梨県埋蔵文化財センターにより行われ、狭い調査範囲であるが諸磯a,b式期住居跡24土坑33確認されている。土器は諸磯式土器a~c式が主体で、器種が豊富でc式末から十三菩堤式への変遷といった時期的変遷追跡できる良質な資料となっている。ほか、最古縄文早期中葉押型文土器破片早期末から前期初頭繊維土器出土しているほか、東海地方西日本資料出土しており、地域間交流があったと考えられている。また、東京都遺跡県内では甲州市塩山)の獅子之前遺跡出土事例がある土器片を加工した人形土製品出土している。石器類狩猟使われる石鏃のほか、打製石斧石皿磨石凹石など植物採集加工栽培用いられる石器出土している。 石器合わせて植物の炭化物資料が豊富で、堅果類ではクリ少量であるが、クルミオニグルミ)は住居跡土坑から5090個がまとまって出土しているほか、アク抜き処理を必要とするドングリ出土している。球根類出土例それまで神奈川県平塚市の上ノ入遺跡キツネノカミソリ出土報告されている程度であったが、花鳥山遺跡では土坑包含層から球根類24点出土し土器内面オコゲ確認され全国的に注目される発見となったその後県内出土土器資料が再点検される球根類発見例相次いで報告され食材としての利用法や野生種との比較など、さまざまな研究試みられ契機となったまた、エゴマ栽培植物として縄文農耕論立場から注目されているが、住居床下から発見され炭化種子塊は国内最古級の資料で、1975年昭和50年)に長野県大石遺跡発見され縄文中期資料更新することとなった。ほか、水洗選別により栽培種ではシソアブラナ類、ニワトコシロザスベリヒユミズキなどが検出され雑草ではエノキグサ検出されている。 動物遺体狩猟であるイノシシシカが主で、細片で被熱が認められるため食糧であった考えられている。また、コイ科魚類エラ骨が発見されており、山梨県内において遺跡から魚骨出土した初の例となった。なお、山梨県における海水魚類の最古出土事例は、縄文後期南アルプス市百々上八田遺跡から出土したタイ科の骨とされている。また、花鳥山遺跡からは貝殻製のボタン製品漁網重りとも考えられる土器片錘も出土し漁労具出土例となった出土遺物のうち、1~2次調査のものはそれぞれ京都大学文学部博物館國學院大學考古博物館で、3次調査のものは山梨県埋蔵文化財センター保管され一部山梨県立考古博物館展示されている。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「花鳥山遺跡」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「花鳥山遺跡」の記事については、「花鳥山遺跡」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/12 15:28 UTC 版)

宮沢中村遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

1994年平成6年)から1996年平成8年)にかけて、国道52号甲西道路開設工事・中横断自動車道建設に際して発掘調査が行われ、遺跡存在1991年平成3年)の試掘調査の際に発見された。宮沢中村遺跡を含む第一期工事区間にあたる南巨摩郡増穂町富士川町大椚-中巨摩郡白根町南アルプス市在家塚の8キロメートル間では中川遺跡大師東丹保遺跡など10箇所遺跡確認されている。 調査1994年平成6年4月25日から1995年平成7年1月20日まで、道路幅25-35メートル長さ120メートル範囲対象として行われた調査区域は出水激しく調査排水行いつつ実施された。 層序は六面で、明治時代一面から中世前半期の六面まで生活面確認された。一面集落の移転が行われた明治期の面で、民家礎石などが検出されている。第二面は主体となる江戸時代の面で、建物礎石井戸・池の遺構法浄寺関わる本堂御堂礎石参道水路・池石垣墓域などが検出された。宮沢集落の南には、東西市川道が通過する宮沢中村遺跡から検出され参道遺構は、市川道から分岐し法浄寺境内へ至る道である。法浄寺明治40年代宮沢集落の移転後も大正期まで当地存在した江戸初期第四面は洪水により一部のみが残り建物跡などが検出された。第五面は中世遺構で、護岸施設として網代用いた列、第六面からは水田検出された。 遺物では土器陶磁器内耳土器茶碗、皿、灯明具、仏具下駄や漆碗、、箱、糸巻、傘の一部などの木製品寛永通宝など古銭、簪(かんざし)、煙管などの金属製品土製品大型植物化石昆虫化石など動植物遺存体、墓域からは人骨確認された。 鎌倉期推定される5面からは南北に走る2号列が確認された。2号列はヒノキ材のヘギ編んで作られ網代両面打たれており、東側には水田面がある列の西側には砂利層が確認されることから河川流路存在していたと推定され列は護岸のための施設であった考えられている。宮沢中村遺跡に近い二本柳遺跡においても同様に平安鎌倉時代列が発見されえている。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「宮沢中村遺跡」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「宮沢中村遺跡」の記事については、「宮沢中村遺跡」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/02 09:49 UTC 版)

身洗沢遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

周辺果樹であったが、1988年昭和63年)に県道309石橋石和線(現山梨県道313号藤垈石和線の一区間)の建設事業に伴い試掘調査実施され遺跡存在想定された。翌1989年には山梨県埋蔵文化財センターによる発掘調査実施され弥生後期竪穴式住居跡2軒や水田跡、弥生時代土器木製品のほか、古墳前期竪穴遺構1基、土坑ピット67基、近世水溜遺構1基、水田跡など検出され縄文中期遺物出土している。 弥生時代遺構見られるのは調査区北側区域で、微高地上に石囲い埋甕炉など内部施設を伴う住居跡配置され列内には下部現存しており、1号住居では丸太材、2号住居では板状加工され用いられている。県内ではじめ発見され弥生水田住居南側埋没旧河道窪地営まれ古墳時代前期段階で完全に埋没するまで水田造成洪水による埋没繰り返されており、水田変遷追跡できる水田跡は畦畔水路など水田施設伴い水田面からは人間の足跡検出されている。 弥生土器弥生後期中央高地描文(Ⅴ期)を主体とする土器群で、東海土器群も混出している。弥生後期水田出土木製品県内では出土事例のなかった遺物で、鍬・エブリなどの未製品や膝柄鍬の柄、又鍬などの農具類、木製剣や用途不明組合木製品部材などが検出された。また、水田跡の窪地からはカヤイヌガヤオニグルミクリトチノキエゴノキモモイネヒョウタンなどの植物遺存体が検出されている。水田跡からは偶蹄目動物の足跡発見されており、シカイノシシ、あるいは家畜としてのウシ可能性考えられている。 古墳時代遺構調査区中央部から南側区域にかけて見られ建物垂木焼け落ちた状態の火災住居であった考えられている竪穴遺構検出されており、S字状口縁付台甕(S字甕)や土器類木製品などが出土している。 出土遺物山梨県埋蔵文化財センター保管され一部山梨県立考古博物館において展示されている。1996年には、木製品など一部が県指定文化財となる。

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「身洗沢遺跡」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「身洗沢遺跡」の記事については、「身洗沢遺跡」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/06 08:02 UTC 版)

稲荷塚古墳 (甲府市)」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

東山地域では甲斐銚子塚古墳素材する曽根丘陵公園整備に伴う山梨県埋蔵文化財センターによる調査1979年昭和54年)から行われており、1986年昭和62年)にはこの地域ではじめての後期古墳調査となった考古博物館構内古墳発掘調査実施された。稲荷塚古墳埋文センター末木健を中心に1987年7月13日から9月22日まで行われ遺構出土遺物確認されている。 1号墳直径20メートル円墳で、南西開口する横穴式石室をもつ。墳丘上部盛土は削平され、石室一部崩壊し天井石消失しており、葺石埴輪等も見られない一部には溝跡も確認されているが、墳丘に伴う周溝であるかは不明出土遺物石室内部出入口部や敷石上から出土し土師器須恵器県内ではじめての出土例となった象嵌(ぎんぞうがん装飾円頭大刀刀子刀装具、甲冑小札類、鉄鏃馬具などの鉄製品、玉類や金環などの装身具などの副葬品発見されているほか、平安時代土師器墨書土器出土している。 また、発掘調査際した測量調査2号墳3号墳の存在確認されている。1号墳北側位置する3号墳は墳丘ではない盛土であると確認されており、墳丘の関係は不明であるが近世五輪塔空風輪)が出土している。1号墳南東接している2号墳古墳中期東山遺跡属すると考えられているが、開墾による削平を受けており、鉄片須恵器片などわずかな遺物確認されている。また、縄文時代石器弥生土器土製品なども出土している。 出土した須恵器や銀象嵌大刀馬具などの編年から稲荷塚古墳築造6世紀後半で、7世紀代までの追葬推定されておいる。銀象嵌大刀武具発見古墳後期における中道地域に有力豪族存在していたことを示すものとなった調査後埋め戻され史跡指定整備行われていない。出土遺物のうち銀象嵌大刀保存処理施され調査資料写真とともに山梨県埋蔵文化財センター所蔵され一部山梨県立考古博物館展示されている。 2002年平成14年7月4日には190点が「稲荷塚古墳出土銅鋺象嵌大刀出土品一括」として県指定文化財考古資料)に指定される

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「稲荷塚古墳 (甲府市)」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「稲荷塚古墳 (甲府市)」の記事については、「稲荷塚古墳 (甲府市)」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/06 08:17 UTC 版)

宮間田遺跡」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

武川村では1979年昭和54年)から県営圃場整備事業実施されており、これに伴う現地調査により平安時代主体とする土器片などが採取された。1985年昭和60年5月13日から17日にかけて行われた試掘調査では平安時代主体とする土器片や竪穴式住居跡などが検出され宮間田遺跡発掘調査に至る。 調査1985年昭和60年7月22日から翌86年11月29日同年6月6日から10月25日にかけて二次にわたり、文化庁山梨県より補助金得て武川村教育委員会により行われた発掘調査資料整理に際しては旧白州町教育委員会財団法人山梨文化財研究所協力得て実施された。 調査では平安時代竪穴住居跡94軒・掘立柱建物跡45棟・方竪穴遺構鍛冶工房検出されている。方形竪穴状遺構地面掘り窪め空間利用した建物遺構で、全国的に12世紀後半代から確認されている。遺物を伴うことが少ないことから機能不明瞭であるが、聞き取り調査民俗事例から馬小屋とする説がある。山梨県内では八ヶ岳南麓地域多く分布しており、宮間田遺跡では24確認されている。そのうち9号住居跡13世紀のもので、47住居跡鉄滓出土していることから鍛冶遺構であると考えられている。 出土遺物では土師器須恵器灰釉陶器銅製巡方腰帯具・墨土器線刻土器などの出土文字資料確認された。第78住居跡から出土した墨書土器には「牧口」の文字確認され真衣野牧関連する集落であった考えられている。 麻・苧麻(からむし)から繊維取り出すための金属製工具である引金(おひき がね)も出土している。山梨県では9世紀後半代に引金確認され古代巨摩郡含まれる八ヶ岳南麓地域において特徴的に出土することから、一帯における麻布栽培や牧との関わり巨摩郡において租税対象である「商布」が生産されていた可能性などが論じられている。 宮間田遺跡出土引金61号住居跡から1点出土した年代9世紀鉄製・半欠。大振りのもので、刃の現存全長は9.2センチメートル。刃幅は3センチメートル程度全体緩く外反し、端部角状に尖る。角状部分菱型断面呈しており、木質部が残ることから刃と平行する方向木質部取り付けられていたと考えられている。こうした特徴山梨県における引金形態としては珍しい例であることが指摘される

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「宮間田遺跡」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「宮間田遺跡」の記事については、「宮間田遺跡」の概要を参照ください。


発掘調査と検出遺構・出土遺物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/11 14:56 UTC 版)

柏尾山経塚」の記事における「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説

1962年昭和37年)に東京電力柏尾発電所導水管埋設工事中発見される郷土史家の上晴朗による現地調査が行われ、南北に1メートル程度間隔で6基の経塚が並ぶことが確認された。 経塚地表70センチメートル下に土坑があり、自然石による小石室を成している。1号経塚からは刀身1点出土し2号経塚から康和5年1103年4月22日在銘経筒1点陶製容器1点小玉25点、経軸残欠8点発見された。3号経塚確認されているが、出土遺物見られず、6号経塚からは銅製経筒2点出土している。 ほか、納入品として鉄製刀剣1、木製の経軸残欠8、陶製容器1、ガラス製・木製の玉類25銅製経筒2、経巻残欠1などの経塚遺物確認されている。 ガラス玉東京国立博物館16点収蔵されているが、出土時には24点あったという。山梨県立博物館には、失われた8点のひとつであると考えられるガラス小玉1点収蔵されている。 2015年には甲州市大和町個人宅から副納品一部と見られる経軸1本、ガラス玉1個、木製数珠玉2個、石室として用いられ石材防腐剤として用いられた炭の一部発見された。ガラス玉発見時の24点のうちの一部見られているが、木製数珠玉発見時に1個が報告されており、記録見られない発見として注目されている

※この「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の解説は、「柏尾山経塚」の解説の一部です。
「発掘調査と検出遺構・出土遺物」を含む「柏尾山経塚」の記事については、「柏尾山経塚」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「発掘調査と検出遺構・出土遺物」の関連用語

発掘調査と検出遺構・出土遺物のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



発掘調査と検出遺構・出土遺物のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの天神遺跡 (改訂履歴)、金の尾遺跡 (改訂履歴)、美通遺跡 (改訂履歴)、大師東丹保遺跡 (改訂履歴)、金生遺跡 (改訂履歴)、油田遺跡 (南アルプス市) (改訂履歴)、若神子城 (改訂履歴)、黒川金山 (改訂履歴)、勝沼氏館 (改訂履歴)、鰍沢河岸 (改訂履歴)、立石遺跡 (改訂履歴)、花鳥山遺跡 (改訂履歴)、宮沢中村遺跡 (改訂履歴)、身洗沢遺跡 (改訂履歴)、稲荷塚古墳 (甲府市) (改訂履歴)、宮間田遺跡 (改訂履歴)、柏尾山経塚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS