稲作 (いなさく)
稲作
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稲作(いなさく)とは、イネ(稲)を栽培することである。収穫後の稲からは、米、米糠(ぬか)、籾殻(もみがら)、藁(わら)がとれるが、主に米を得るため稲作が行われている。
注釈
出典
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稲作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:07 UTC 版)
稲作は、栽培限界とされる標高1,250mに近く、土地の肥沃度も低いことから特に冷害を受けやすい環境にあり、田の水口(みなくち)に澱みを作って水温を上げる「ぬるめ」を設けるなどの工夫を古くから行っていたが、明治初期の反収は1875年現在で0.83石と、のちの茅野市域9か村では湖東村に次いで低く、麓の永明村(1.65石)の半分にとどまっていた。このため各農家では、自家消費を抑え現金収入となる販売用の米を少しでも確保するため、近隣他村と同様に米に大根や大根葉、干した漬け物などを混ぜた飯(ヒバ飯)や粟の混ぜ飯を常食にし、蕎麦を食べるなどしていた。 明治中期以降、入会地から刈り取った草を代かき時に敷き込んで田の肥料とする昔ながらの刈敷に加えて、金肥として昭和初期にかけてニシンのしめ粕といった動物性肥料、大豆粕などの植物性肥料、それに過リン酸、硫安などの人工肥料が普及。これに合わせ耐肥性があり冷害に強い品種が作付けされるようになり、定期的に冷害による減収に見舞われつつも、明治末期には反収が2石を超え(1909年村内反収2.11石)、おおむね一定の収量が確保されるようになった。また養蚕を兼業するために、代掻き車や手押し除草機、足踏み脱穀機などの農機具の積極的な導入により、農作業の省力化を図った。 特に低温や低水温、霜、結氷に見舞われやすい水苗代の播種期については、従来から水深を深めに維持する「深水」管理を対策としてきたが、発芽の遅れや苗の腐敗などの障害が多発するため、1930年代から篤農家などの手で考案されたさまざまな対策が試みられた。 戦後、油紙で苗代を覆い保温する「保温折衷苗代」の技術が導入され、安定して育苗することが可能になった。このため、従来標高800m程度の宮川村やちの町を中心に栽培されていた多収穫品種「農林17号」を北山村内でも作付けする農家が増え、1953年における村内の農林17号作付け割合は60%に達した。また1951年に肥料統制が廃止されたことを受け、各農家は窒素肥料を大量に施肥して収量増に励んだ。しかし、1953年7〜8月の長雨と低温で発生した大冷病害では、こうした収量優先の営農方針がいもち病の拡大と不稔につながり被害が深刻化した原因となったため、以後、冷害に強い新品種の作付けに取り組むようになった。 水利の余地がないことから明治以降、新田開発は行われなかったが、戦時体制にともなう食料増産を目的とする特例として1938年5月に湯川区の上の原および下の原の桑園、山林などを水田とすることを目的とする耕地整理組合が設立された。渋川より得られる灌漑水量や地形などの制約から規模は計画より縮小され、1940年に上の原地籍の10ha余を開田して終了した。
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稲作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 22:56 UTC 版)
稲作は大きく分けて田植期、育成期、収穫期の3期に分類される。稲作を行うことで主人公の各種ステータスの向上や新しい技の習得が発生するため、稲作をやればやるほど戦闘を有利に進めることができる。
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稲作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 02:37 UTC 版)
「我孫子市立我孫子第二小学校」の記事における「稲作」の解説
5年生と6年生の行事。5年生は秋に収穫祭を行い、収穫した米で作った餅を5年生の全員でパック詰めし、全校生徒に配布する。6年生は我孫子第二小学校から徒歩数分の「谷津田」という自然が集まる場所の一角で古代米の栽培を行う。米の栽培の指導については地域の方がボランティアとしてやっている。
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稲作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 03:07 UTC 版)
高雄件の美濃及び旗山は高雄地区の穀倉地帯と称されていた。清朝統治時代の美濃地区では龍庄水圳と中圳埤の2系統の灌漑施設が利用されていた。龍肚水圳は1738年(乾隆3年)に龍肚庄の鍾丁伯により開鑿され、その工事費用は龍肚河辺寮、横山庄などの農民により拠出され、灌漑対象田地は数百甲に及んだ。中圳埤は1828年(道光8年)の大雨の際に羌仔寮渓と大坑渓の洪水に拠り出現した湖を美濃庄から月光山の田地に供給したものである。 清代の美濃地区の水稲栽培は一部の地主が農地を小作農に貸し出しており、小作料は歩合制とし地主に収穫の15%から20%を納入するシステムであった。しかし清末には納入比率は60%にも及び、また客家系移民の増大により耕作可能農地が不足し、光緒年間には米不足が経常的な問題となっていた。 日本統治時代の1898年(明治32年)、総督府は小作制を廃止し、代わって『台湾地籍規則』と『土地調査規則』を公布、1904年には総督府は美濃地区での土地測量を実施している。また1908年(明治41年)には竹子門水力発電所を建設した際、発電後の水を農業用水とする計画を策定、美濃地区に獅仔頭圳路を開鑿し付近の44余甲の田地への灌漑を行っている。その後水路の延長工事が行われ、現在の「導水幹線」、「第一幹線」、「第二幹線」、「拡灌幹線(竹頭角幹線)」、「農地重画圳路」の5系統に整備されている。 獅仔頭大圳の建設と同時に、総督府は荖濃渓北岸に1,300mの堤防を建築し、洪水被害が頻発していた美濃南隆地区への防水対策を実施した。1921年(大正10年)、美濃水稲栽培面積共は4,600甲、農家数3,975戸と旗山地区の2倍もの規模に成長していた。1926年(大正15年)からは日本内地より蓬莱米が導入された。しかし病虫への抵抗力が弱く、また栽培法が浸透しておらず生産量が低かったため、作付面積はある程度のものでしかなかった。 1931年(昭和6年)、総督府は亀山圳を開鑿し南隆農場区域内の540甲の田地への灌漑を開始した。また農業指導の効果もありこの頃から蓬莱米の作付け面積が増加している。1937年(昭和12年)の美濃庄の農業生産額は1,901,624円に達し、その中で稲作は1,726,692円と農業全体の90.8%を占めていた。 日本の敗戦により国民政府が台湾を接収すると、国民政府は食糧品を廉価に押さえ市場をコントロールする政策が採用された。それと同時に1949年以降三七五減租、公地放領、耕者有其田等の土地政策が実施され、美濃地区で74%存在した小作人は、一連の土地改革で自作農が78%を占めるに至った。 しかし台湾の工業化を推進するために、廉価な労働力の確保と工場労働者の生活維持のために米価を廉価に設定していたため、米価は経済成長と不均衡となり、多くの農家が水稲栽培での生計維持が困難となった。1966年に高雄加工輸出区が設置されると、美濃農業人口は僅か11,156人となり、主に女性が農業を行い、男性は工場労働者への次第に転換していった。また品種改良の成果で収穫量が増大、過剰生産となった水稲は1984年から転作政策が行われ、美濃地区の水稲栽培面積も次第に減少した。1976年には7,927エーカーを記録した水稲栽培面積も1994年には3,860エーカーとなっている。また2002年、台湾は正式に世界貿易機関に加盟したことにより、美濃地区も国際価格競争にさらされ、今後は更に農業が衰退していくことも予想されている。
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「稲作」の例文・使い方・用例・文例
- 台風は稲作に大損害を与えた
- 私の住んでいるところでは、稲作が盛んで田んぼが広がっています。
- その平野は日本を代表する稲作地帯になった。
- 日本では稲作が高度に発達した。
- 台風で稲作は大きな被害を受けた。
- 昨年は異常な冷夏で、稲作は10年ぶりの凶作だった。
- 上々の稲作.
- 台風がこの地方の稲作に壊滅的打撃を与えた.
- この台風でこれらの地方の稲作は大損害を受けた.
- 稲作不良
- 稲作が不良のため,秋になって米価が高くなること
- 稲作をする地域
- 稲作のために水を入れた耕地
- 稲作用に使う土地
- 二期作という稲作
- 稲作トラスト,参加者が米作りの魅力を発見する手助けに
- あなたは稲作トラストについて聞いたことがあるだろうか。
- 今年は9人がこの稲作トラストに参加している。
- それらの活動には茶道や稲作,サイクリングなどが含まれる。
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