茨田堤とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 茨田堤の意味・解説 

茨田堤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/04 07:40 UTC 版)

伝茨田堤(大阪府門真市堤根神社
伝茨田堤
伝茨田堤の位置

茨田堤(まんだのつつみ/まむたのつつみ)は、淀川にあった古代堤防。実際の所在地は明らかでなく、大阪府寝屋川市門真市大阪市旭区などに伝承地がある。

概要

大阪府北部、淀川の南岸に築造された古代の堤防である。古代の河内平野には河内湖と呼ばれる湖があり、北から淀川が、南から大和川が流入して氾濫・洪水が発生しやすい環境であった。茨田堤は、こうした環境を改善して河内平野低湿地の開発を進めるため、古代王権が主導して渡来人の技術力のもと築造した堤防とされ、難波の堀江とともに記録に残る日本最古の土木事業と位置づけられる。

古事記』・『日本書紀』では、仁徳天皇の時に茨田堤が築造されたのち茨田屯倉が設置されたとする記事が掲載され、その後の歴史書では茨田堤が幾度もの洪水によって決壊と修築を繰り返した旨の記事が見える。実際の築造場所・築造時期については明らかでなく、近世以来考察がなされている。そのなかで、門真市宮野町には茨田堤の唯一の伝承地として土塁が残るものの、発掘調査では古墳時代から古代の遺構は確認されていない。実態は未だ明らかではないが、記録に残る日本最古の堤防として重要視される施設になる。

名称

「茨田」は地名で、『和名抄』では河内国に茨田郡・茨田郷の記載が見える。茨田郡は河内国北部に位置した郡である。茨田郷の所在地は明らかでなく、『大日本地名辞書』では堤根神社の所在する大和田村・四宮村付近(現在の門真市)に推定し、『寝屋川市誌』では伝茨田親王塚のある付近の高柳廃寺跡を茨田寺とみて寝屋川市高柳付近に推定する[1]。文献では、その他に茨田屯倉(茨田三宅)や、古代氏族の茨田連(茨田氏)が見える。

「茨田」の読みについて、『和名抄』では「万牟多(マムタ)」と振り[2][3]、『拾芥抄』では「マウタ」と振る[2]。元はウマラタであったのがマラタに転訛したと推測され[3]、その後マムタからマッタ・マンダと変化したとされる[2]

近代の茨田郡の郡名は「マンダ」であり[2]、近年の文献では茨田堤の読み仮名も主に「まんだのつつみ」と振られる[4][5][6]

歴史

築造伝承

古事記仁徳天皇段では、天皇の御世に、秦人を労役にあてて茨田堤と茨田三宅(茨田屯倉)を作ったと見える。同段では続けて、丸邇池・依網池を作り、難波の堀江を掘り、小椅江を掘り、墨江の津を定めたとする[3]

日本書紀』仁徳天皇紀では、仁徳天皇11年10月[原 1]に宮の北の野原を掘って堀江(難波の堀江)とし、北の川の洪水を防ごうとして茨田堤を築いたとする。この時に、塞ぐのが難しい切れ目2ヶ所があったが、天皇の夢に神が現れて武蔵人の強頸(こわくび)・河内人の茨田連衫子(ころものこ)の2人を河伯(河の神)に捧げ祭るよう言った。強頸は悲しみながらも水に没して死んだが、衫子は匏(ヒョウタン)2つを水中に投げて、これらの匏を沈めて浮かばせなければ真の神だとして自ら水の中に入るが、そうでなければ偽りの神だとして身を滅ぼすことはできないと言った。その時につむじ風が起こって匏を水に引き入れようとしたが、匏は沈まなかったため、衫子は死を免れた。そして2ヶ所とも塞がれて堤が完成し、難所2ヶ所は「強頸断間(こわくびのたえま)」・「衫子断間(ころものこのたえま)」と称されたとする。またこの年[原 2]、新羅人が朝貢したので、この堤の労役に徴用したとする[7][6]。さらに仁徳天皇13年[原 3]には、初めて茨田屯倉を立てて、舂米部を定めている[7]

なお、『日本書紀』仁徳天皇50年条[原 4]では、茨田堤で雁が産卵したとする説話を載せる[8][6]

古代

文献では、『行基年譜』所引「天平十三年記」に「茨田堤樋 同郡(茨田郡)茨田里」と見え、行基が茨田堤の樋を構築している[6]

天平勝宝2年(750年[原 5]には、伎人・茨田等堤が決壊した。宝亀元年(770年[原 6]には、志紀・渋川・茨田等堤の3万余人によって修築された。しかし宝亀3年(771年)8月[原 7]に、茨田堤6処・渋川堤11処・志紀郡5処が決壊している[6]延暦3年(784年[原 8]にも、河内国茨田郡堤の15処が決壊し、6万4千余人に築造させている。

嘉祥元年(848年)8月[原 9]には、洪水で河陽橋(山崎橋)は断絶、宇治橋は傾損、茨田堤は所々で途切れた。同年9月[原 10]には、藤原嗣宗・藤原直世・山代氏益・六位判官4人・主典4人らが遣わされて、茨田堤を築かせている。

近世

文禄5年(1596年)、豊臣秀吉は諸大名に命じて淀川左岸の堤防の改修を命じている(文禄堤・慶長堤)。これによって淀川流路は固定され、河内湖の名残りの新開池・深野池といった遊水池から分離された[9]

また、近世地誌等で茨田堤の比定地について説が出されるようになる。『河内名所図会』では、池田村から太間・伊加賀に至る範囲(現在の寝屋川市池田・太間、枚方市伊加賀)に古堤がわずかに残るとする[6]。『摂津志』東成郡条では、伝承に見える「強頸断間」を千林村(現在の大阪市旭区千林付近)の絶間池の地にあてる(浄光寺付近に強頸断間跡説明板)[7]。また『河内志』茨田郡条では、「衫子断間」を太間村(たいまむら、現在の寝屋川市太間町付近)にあてる(太間天満宮境内に衫子絶間跡碑)[7]吉田東伍は、『大日本地名辞書』上において枚方から東生郡野田村までの凡7里とする[4]

近代以降

  • 1974年昭和49年)3月29日、伝茨田堤(堤根神社東側)が大阪府指定史跡に指定。
  • 1974年(昭和49年)、「淀川百年記念」事業に関連して淀川堤防上(寝屋川市太間町)に「茨田堤」碑の設置[10]
  • 1980年度(昭和55年度)、宮野遺跡の発掘調査:伝茨田堤南側隣接地の調査(門真市教育委員会、1982年に報告)[11]
  • 1983年(昭和58年)5月2日、伝茨田堤の一部(堤根神社西側)が大阪府指定史跡に追加指定。
  • 2012年度(平成24年度)、歴史遺産整備事業に伴う伝茨田堤の発掘調査。鎌倉時代の築造痕跡を確認(門真市教育委員会、2014年に報告)[12]

遺構

3 km
衫子断間
伝承地
茨田堤碑
強頸断間
伝承地
伝茨田堤
茨田堤関連旧跡

茨田堤の具体的な所在地については明らかでなく、淀川本流左岸説、淀川分流(南流)左岸説、淀川の本流・分流説が挙げられる[13]。『寝屋川市史』では、淀川の本流・分流説を有力視し、枚方市太間から分流して河内湖に注ぐ古川と、太間から大隅・高瀬を経て河内湖に注ぐ本流の各左岸に「茨田堤」を想定する[13]

門真市宮野町には、茨田堤跡と伝承される土塁が唯一残存する。土塁の付近には延喜式内社堤根神社が所在しており、茨田堤築造に関係の深い古代氏族の茨田連(茨田氏)が祖先を祀ったと伝承する。土塁は、現状では高さ1メートルあまりの堤防上の高まりで、かつては古川の堤防であったとみられる。平成24年度に発掘調査が実施され、鎌倉時代の築造と判明したものの、古墳時代から古代の時期の遺構は確認されず、茨田堤と断定するには至っていない[12][14]

文化財

大阪府指定文化財

  • 史跡
    • 伝茨田堤 - 1974年(昭和49年)3月29日指定、1983年(昭和58年)5月2日に史跡範囲の追加指定。

考証

茨田堤の築造について、『古事記』では秦人を、『日本書紀』では朝貢した新羅人を労役に使ったと見え、新羅系渡来人が動員された様子を示唆する[13]。このことは、伝承に瓠や河伯という中国的な知識が見えることや、『和名抄』で河内国茨田郡に幡多郷が見えることとも関連する[13]

実際の築造時期については明らかでなく、5世紀初頭頃とする説(仁徳天皇期)、5世紀後半から6世紀初頭頃とする説、7世紀代とする説(推古天皇期や孝徳天皇期)とする説が挙げられる[13]。『寝屋川市史』では、5世紀後半から6世紀初頭頃とする説を有力視し、その根拠として古墳副葬品にみる技術発展としてその頃以前は未だ技術力が低い点、その頃の淀川自然堤防上・古代河内湖北岸低地の開発と対応する点、その頃の難波の堀江・難波津も含めた難波地域全体の開発の一環と考えうる点を挙げる[13]

脚注

原典
  1. ^ 『日本書紀』仁徳天皇11年10月条。
  2. ^ 『日本書紀』仁徳天皇11年是歳条。
  3. ^ 『日本書紀』仁徳天皇13年9月条。
  4. ^ 『日本書紀』仁徳天皇50年3月丙申(5日)条。
  5. ^ 『続日本紀』天平勝宝2年(750年)5月辛亥(24日)条。
  6. ^ 『続日本紀』宝亀元年(770年)7月壬午(22日)条。
  7. ^ 『続日本紀』宝亀3年(771年)8月条。
  8. ^ 『続日本紀』延暦3年(784年)閏9月戊申(10日)条。
  9. ^ 『続日本後紀』嘉祥元年(848年)8月辛卯(5日)条。
  10. ^ 『続日本後紀』嘉祥元年(848年)9月乙亥(19日)条。
出典
  1. ^ 「茨田郷」『大阪府の地名』平凡社〈日本歴史地名大系28〉、1986年。
  2. ^ a b c d 「茨田郡」『大阪府の地名』平凡社〈日本歴史地名大系28〉、1986年。
  3. ^ a b c 『古事記』新編日本古典文学全集1、小学館、1997年(ジャパンナレッジ版)、pp.286-287。
  4. ^ a b 国史大辞典.
  5. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ).
  6. ^ a b c d e f 大阪府の地名 1986.
  7. ^ a b c d 『日本書紀2』新編日本古典文学全集3、小学館、1996年(ジャパンナレッジ版)、pp.36-41。
  8. ^ 『日本書紀2』新編日本古典文学全集3、小学館、1996年(ジャパンナレッジ版)、pp.62-63。
  9. ^ 「淀川」『大阪府の地名』平凡社〈日本歴史地名大系28〉、1986年。
  10. ^ 茨田堤(寝屋川市ホームページ)。
  11. ^ 宮野遺跡発掘調査概要 1982.
  12. ^ a b 史跡伝茨田堤発掘調査報告書 2014.
  13. ^ a b c d e f 寝屋川市史 第10巻 2008.
  14. ^ 伝茨田堤史跡説明板。

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『茨田堤と茨田屯倉 -古代の茨田郡を考える-』寝屋川市、1999年。 

関連項目

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「茨田堤」の関連用語

茨田堤のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



茨田堤のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの茨田堤 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS