茨田枚麻呂とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 茨田枚麻呂の意味・解説 

茨田枚麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 05:21 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

茨田 枚麻呂(まんだ の ひらまろ、生年不明 - 天平勝宝7歳3月以前(755年4月頃))は、奈良時代中期の官人。名は枚万呂とも記される[1][2][3]宿禰官位従五位下東市正

経歴

聖武朝天平15年(743年)9月、令旨により、法花玄賛を写経所に写させている。この時、「中宮少進」と見える[4]。同16年(744年)7月、その宣により、盂蘭盆経を請経させ[5][6]、同年、私願により、最勝王経を写さしめた[7]。同17年正月、その宣により、丈六堂戸障子料の播磨紙を請わしめ[8]、同17年(745年)4月18日のに中宮少進・正六位上として名前が現れている[9]。なお、『大日本古文書』の「中宮職」は「皇后宮職」の誤りではないか、と言われている[10]

同17年の4月、詫多真玉・国君麻呂らとともに正六位上から従五位下に昇叙したとある。彼の場合は茨田弓束茨田枚野の場合と異なり、最初から宿禰であり、以下もそうである[11]

同18年(746年)7月の近江国司解には同国介、外従五位下として署している[1][2][3][12]

孝謙朝天平勝宝元年(749年)8月、大原麻呂の後任の美作守に就任[13]

同2年(750年)6月、その所願の心経を写させ[14][15]、7月心経1000巻、薬師経12巻を写書所において写さしめ[16]、同3年(751年)3月、その料筆墨を借用させた。ともに「茨田大夫」と記されている[17]

同7歳(755年)3月、大灌頂経を写経所に貸しているが、この時は「故茨田大夫家」となっており、既に没していた可能性がある。

官歴

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 『寧楽遺文』下巻 - 745頁
  2. ^ a b 『大日本古文書』巻二 - 523頁
  3. ^ a b 『大日本古文書』巻九 - 255頁
  4. ^ 『大日本古文書』巻八 - 466頁
  5. ^ 『大日本古文書』巻八 - 190頁
  6. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 180頁
  7. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 279頁
  8. ^ 『大日本古文書』巻八 - 460頁
  9. ^ 『大日本古文書』巻二 - 399頁
  10. ^ 早川庄八『宣旨試論』127頁
  11. ^ 『続日本紀』巻第十六、聖武天皇 天平17年4月25日条
  12. ^ 『東南院文書』巻三 - 97頁
  13. ^ 『続日本紀』巻第十七、孝謙天皇 天平勝宝元年8月10日条
  14. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 4頁
  15. ^ 『大日本古文書』巻廿五 - 7頁
  16. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 347頁
  17. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 6頁

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  茨田枚麻呂のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「茨田枚麻呂」の関連用語

茨田枚麻呂のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



茨田枚麻呂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの茨田枚麻呂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS